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すでにリュンヌの日記帳は手の中になかった。あるのはリュンヌの記憶と感情。伝えるのはヴァイスの口からである。
「呪いとは必ず解かれるもの、とは言うが呪いとはなんだ。日記帳のどこにも、俺の記憶にも、リュンヌはだれも恨んだ様子はないが?」
まったく記憶になかった。
夜はすでに明けている。しかし尚もソールは毛布に包まれ眠っていた。
きりの良いところで日記の音読は終わったはずだった。だが泉のようにこんこんとわきあがる記憶をヴァイスはそのまま口に乗せたのだ。向かい合う老人はじっと耳を傾けている。
「ほう、すでに自覚があるのか」
「そうだ」
なんのだ、と問うまでもない。自分はリュンヌの生まれ変わりだと、断言できる。なにを根拠にといわれれば、こたえることはできないがそれは些細なことだと思った。
自分は何らかの運命によってここにたどり着き、目の前の老人と対峙している。
鳥のさえずりが聞こえてきた。人里離れた場所にあるため、周囲に人の気配はない。ただ獣の匂いと朝露の匂いがあるのみ。
おかしな話だ。自分が王妃の生まれ変わりなどと。狂っているとしか思えない。
「ヴィヴィアンヌは翌日には王と共に城に帰った。承知の上で王を恨んだりはしていない」
老人は目を細めた。
「では第二子については憶えておるかな」
「第二子?」
「ソレイユとの子じゃよ」
「――ああ」
ようやく思い出したように、ヴァイスは頷いた。
「託した」
自分が堂々とリュンヌであったとして答える様は、異様である。だが老人とて、だれかの生まれ変わりであることを自覚しているに違いない。
「ソレイユに託した」
それが最善であると判断したのだ。生まれたばかりの男児は、侍女によってソレイユの元へと届けられた。乳をやったことはおろか、一度としてあやしたこともない。抱くこともなく己のもとを去っていった子に、リュンヌは愚かしいほど冷静に見送ったのである。
守るべき者の存在があれば、ソレイユは強くなると確信した。
「はっ」
間を置き、老人は鼻で笑う。
「こどもは王妃にとってその程度のものか」
「王は無下に子供を扱わない。度量の狭い男ではないからな。王から離れるより、王のもとで学ぶべきことはたくさんある」
「お子はリュンヌを恨みながら死んでいったのにか」
「!」
ヴァイスは片眉を吊り上げいぶかしむ。だが子供の立場からよくよく考えれば、母に捨てられたと感じるであろう。
「お主が感じることができないのは、ヴィヴィアンヌがそうであったように、母親に対する恨みつらみがいつかは氷解すると思っていたからだ。そこで質問だ、リュンヌは果たしてソレイユとの子の名前を知っていたかね」
「なんの関係がある?」
しかもなぜ老人はヴァイスに怒りを向けるのだろうか。たとえふたりが過去の人間の生まれ変わりだったとしても、現在にその影響はかけらもない。とくにヴァイスに王妃の記憶があるとしても、意味を問われたのならこたえることはできない。狂っている、この老人も。
「史実にはなんと書いていた?」
「一度として」
老人は堪えるように言葉を区切る。
「腕に抱いたこともなく、名を呼ぶこともなく存在さえ忘れられたお子」
「それが僕」
突如割って入った幼い声に、ヴァイスは振り返った。
寝起きとは思えない眼差しは、まっすぐにヴァイスに向けられている。睨みつけるといった方がしっくりくるソールの視線は、もはやヴァイスの知るものではなく、同じパーツをつかった別人だった。
声をかけられるまで起きた気配も、近寄ってくる気配も、存在そのものを感じることができなかった。ヴァイスは背中に汗が伝っていくのを感じた。
「――僕?」
「僕だよ、母上」
なんだろう、呑まれる様な威圧は。
子供が背負うにしてはどす黒く、重たい雰囲気を目の前の少年は醸し出している。それは何年も何十年も積もって圧縮したような。
気圧される、思わずごくりと唾を飲みこんだ。
笑い飛ばすことも、否定することもできない。たった今、王妃の生まれ変わりだと自覚したではないか。
だが――たしかに。
たしかにヴァイスは、ソールがソレイユとの子の生まれ変わりだとして、名前がまったく思いつかないことに困惑した。
「呪いとは」
震えるヴァイスに静かに老人は語りかけた。
「子が愛情に飢え、母を求めた結果に過ぎぬ」
心臓を鷲づかみにされたような強い苦痛、そして不快感を伴う動悸。
壁に背を預け、ヴァイスは胸を押さえながら荒い呼吸を繰り返した。ずるずるとその場に座り込む。
覗きこむ少年の口元は半円を描き、しかし目は笑っていない。
「なぜ」
少年は抑揚なく呟く。
にじり寄られ、すっと差し出された小さな手に、ヴァイスは心臓が跳ね上がった。
「僕を見捨て、父を殺したのですか」
老人は側でふたりの様子を見つめている。助ける様子は微塵も感じられなかった。
ソールは張り付いた笑みを浮かべた。
「父上を愛しているって? そんなわけないでしょう。僕達は母上、あなたに捨てられたんだっ。全部、姉上に譲るために。姉上は、僕の目を切り裂き、王位に就いた。だから僕の目は見えなくなってしまった。僕は姉を恨んだよ。でももっとも憎いと思ったのは、一度として僕を見ることのなかった母上、あなただ」
ソールの悲痛な叫びに、ヴァイスは後頭部に鈍器で殴られたような強烈な傷みを憶えた。なにもヴァイスが責められる筋合いはない。少年の言うことが事実だとしても、リュンヌとソレイユの子は今ここにいないのだから。
そう思うのと反対に、心のどこかで子供の責めに非常に打撃を受けているところがある。
責められている、恨まれている。
不意に抱きしめてあげたい衝動が湧き上がる。けれどヴァイスには手を伸ばすどころか、視線を合わせることすらできずにいた。懺悔しようとする精神を、必死にヴァイスの身体が強固に押し留めていた。
そして、苦痛が最高潮まで来たときヴァイスの思考は停止した。目の前が白くなる。
己の息遣いもやがて聞こえなくなっていた。
次第に白い幕から情景が浮かび上がる。遠い記憶だとわかるまで、そう時間を要しなかった。

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