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「ばっかじゃねぇの」
 きりのいいところで日記帳を乱暴に閉じ、ヴァイスは大仰にため息を吐き出した。
 向かいの老人は、いまや安楽椅子に腰掛けヴァイスの声を子守唄代わりにして眠っている。ところがヴァイスの声が途切れた途端、ぱちりと目を覚まし怪訝な表情を見せた。
 茜色の空が広がり、熱を帯びた最後の光が室内にゆっくりと侵入する。
 盲目のソールはヴァイスの前に膝を抱えて座り込み、続きを促すように見上げている。長く伸びた前髪から覗く目は薄いブルーであった。だが視線は虚ろにさまよっている。
「くそじじぃっ、しかも寝てやがったな」
 頬を伝う透明な液を手の甲で拭う老人の姿に、ヴァイスはぎりっと歯をこすり合わせた。
「あの。続き」
 か細い声が、しかし命令の意志を持って放たれる。ヴァイスはソールをにらみつけた。
「こんなんでてめぇの目が見えるようになるとでも思っているのか」
 こくん、ソールは実に素直に頷いた。
 ヴァイスは舌打をした。医者ではないヴァイスにソールの目の状態がどんなものかは皆目検討がつかない。だが呪いによって目が見えなくなるなど、聞いた事がない。しかもその呪いの解き方が、王妃の日記を読むなどという馬鹿げたものなのだ。
 鼻で笑っても誰が咎めようか。
「まぁ、嘘だと思うのはしかたがないが。ところでリュンヌ王妃の肖像画は見たことがあるかね」
「は?」
 唐突な質問に、ヴァイスは語気荒く聞き返した。
「実にやせこけた王妃だとは思わないかね。貧相、哀れ等々、様々な形容詞はつくじゃろうな。肖像画は唯一嘘をつかぬ。王はいくらでも見目麗しい女を王妃にできた。だがなぜリュンヌにこだわる? それは文献や史実には記載されていない。王妃は美人であると、これは常識になっているしな。しかしこれは口伝でしか知り得ないことなんじゃ。その事実を知るわしが、悲劇の王子の血を引く一族の養子になったことは運命だとは思わぬか? 簡単なことじゃ、なにもかも。王がリュンヌにとりこになったこと。一族が呪われたこと、原因がわかれば結果に納得できる。そうして呪いは解かれる」
「単刀直入に言え。この日記の中に呪いの原因が書かれているってことだろう」
「歳をとると、注意深くなるものでな」
 老人は喉をひきつらせながら笑った。まるでかえるだ。
「はじめからこれをどっかの学者にでも渡せばわかったんじゃねぇの」
「そうもいかん、金もないしな」
 リュンヌに学はあまりなかった。そのたどたどしい字は時に誤字さえある。独学で学んだとしても、その誤字・脱字への対応は教科書に載ってはいないだろう。
「学者は誤字やらを考慮せん。新たな暗号かなにかだと思うわな。その点――お前さんなら読めるじゃろ?」
「んなこたぁ、ねえと思うが」
「まあ、王妃の評価を下げたくないのもひとつあるがな」
 ヴァイスはじっと老人を見つめた。老人もまた無言で見つめ返してくる。
 言葉が見つからなかった、というのもある。だがそれ以前にどこかでこの老人と対峙したことがあるように思えたのだ。記憶をいくら辿ってみても、思い当たることはなにひとつない。また似たような状況もなかったはずだ。
「さて、早速だが続きを読んでもらおうかの。ソールが待っておる」
 ヴァイスはちらりとソールを見た。純情そうな子供が、まっすぐに見上げてくる。
「まあいいさ」
 言いたいことの全てを飲み込んでヴァイスは肩を落とした。読み終える頃には夜が明けているかもしれない。腹が空いてきた。だがなぜか食事をする気持ちにはなれない。せいぜいぶどう酒をひっかけたいぐらいだ。
 太陽は確実に沈んでいく。差し込んでいた光はもうない。
 明かりとなるものはなく、しかしながらヴァイスは日記を読むことができた。
 否、読んだのではない。
 ヴァイス自身、なぜだかはわからない。だが書いていることが手に取るようにわかるのだ。そしてすらすらと言葉を紡いでいく。
 不思議だとは思わなかった。
 彼の脳裏にはもう現実はなく、遠く過去の情景へとさかのぼる。
 老人が目を細めてヴァイスを見つめている。
 まるで自分が――そう。

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