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階の上、玉座は荘厳な彫刻を施された木製の棺が置かれていた。棺の後ろには剣と盾が交差し、そのまた後ろにドグマニード家の紋章を刺繍した旗が飾られている。周囲には生前好んだ白い小花が赤い絨毯を挟んで両側に敷き詰められている。
リュンヌは一歩一歩と、ゆっくりとした歩調で進んでいった。本城へ着いてそのままの格好である。髪はまとめたにもかかわらず、風に煽られて乱れている。身体はやせこけ筋張り、事情を知らない若い侍女や兵士たちはその中年女を乱暴に追い出そうとさえした。だが母への態度とは裏腹に、剣を抜いて守ったのはやはりヴィヴィアンヌである。
なにも剣で脅しをかけることもなかろうに、リュンヌはその暴力的な気遣いに視線を落とした。
胸の前で手を合わせ、リュンヌは跪いた。
棺の中で目を閉じる王は、呵呵大笑をした大男とはかけ離れた老人であった。太くたくましい筋肉のついた腕は痩せ細り、皺も深くなって胸の前で組まれていた。花に埋もれて身体つきはわからなかったが、骨ばった顔を見れば、おのずとわかる。
リュンヌはそっと遺体の頬に触れた。自分の手と同じように乾燥して、紙のように張っている。引っかけば、たやすく爪あとが残った。唇は驚くほど硬く、冷たい。だが引き結ばれており、死んでいて尚、彼の強固な意志が存在しているように見えた。
リュンヌは食い入るように見つめる。
彼は死んでいるのだ。
不意に喉になにかが詰まるように、無様な息が出た。
思えばこの男がアリシアン・リーを欲したことから全てが始まった。捨て置けばよいのだ、たかだか娘など。なのにこの男の執着は娘のリュンヌにまで及ぶ。
彼が初めて教会に訪れたとき、周囲に護衛も置かず剣も帯びず、しかし内側からにじみ出る圧倒的な自信に、リュンヌは身がすくむ思いだった。彼は実際よりもずいぶん大きく見え、目の前に立ちふさがり値踏みするように見下ろしていた。逆光により彼の表情は見えなかったが、憤怒と、憐憫、そして愛情、いろいろな感情が混ざり合った声で名を尋ねられ、ことさらにリュンヌを怯えさせた。
「名は」
兄弟たちの衣服を洗濯板にこすり付けているときである。彼は背後に修道女を控えさせ、突然声をかけてきた。
低くしゃがれた声と、その巨体は今にも襲い掛かってくる悪魔そのものだった。
反射的に振り返った少女は、逆光で顔が見えない男に小さく悲鳴を上げた。身体が強張る。
穏やかな気候である。外での洗濯も苦痛にならない。陽光は温かく、微風の中に花の香りが漂ってくる。緑鮮やかな中に、銀糸の縁取りをしたぶ厚い衣は異質であった。
男はしばらく少女の返事を待っていたが、それも数秒のことだった。
「聞こえぬか」
男は上体を屈ませ、顔を近づけてきた。鋭い眼光と四角張った顔、白いひげは硬く唇はぶ厚い。なにより果実のような甘ったるい芳香が全身から漂っている。
「リュンヌ、返事を」
控えていた修道女の声も、震える声で助け舟を出した。
男は身を引き、顎をひとなでした。
「……月(リュンヌ)」
呟き、鼻で小さく笑われる。名を馬鹿にされたと思うと、リュンヌの頬に朱が走った。
月とは女性の隠語で、侮蔑の意味も込められている。
「こい」
なんの前触れもなく、男は泡だらけである少女の手を掴みあげた。
一度として男に触れられたことのない少女は、その一瞬で怖気がはしり、肌が粟立った。
無意識に男の背後に控える修道女に視線だけで助けを請うたが逸らされた。彼女の懐はやや膨らんでいる。そこを大事そうに押さえ、こちらを見ないように唇を噛み締めているのはどういうことだ。
もう一度低く、男がうなる。次にリュンヌは喉をひきつらせた。子供と大人の力は歴然としている。この場においてだれも自分の味方はいないのだ。だが男はそのことなど一切考慮せず、力任せに腕を引っ張って立たせた。ぽたぽたと肌理の粗い泡が腕を伝って衣服に染みた。
男は頭ふたつ分ほど背が高かった。彼は己の手が洗剤で汚れるのを構わず、少女が逃げないようにさらに力を込めて握った。
獰猛な獣の様子を、リュンヌは唾を飲み込みながら見守る。男は眉間に皺を寄せ、渋い表情で見下ろしている。
改めてリュンヌはよくよく男を観察した。
筋肉たくましく、無駄のない締まった身体つきである。顔は角ばって、灰色の混じったひげを蓄えている。髪は剛毛のうえ癖が強く、手入れをされていないのかぱさついて広がっていた。衣服はぱっと見ただけではわからないが、己が着用する麻のワンピースと木靴のように簡素ではなかった。
「わしはドグマニード王・シュッダイナという」
リュンヌはかすかに頷いた。
真名をたかだか孤児に教えるのはあまりにも軽率である。だがその判断基準をリュンヌは持ち合わせていない。わかったと再三頷くのが精一杯である。
「ふん」
彼は鼻を鳴らせた。リュンヌの反応が期待したものと違っていたようだ。
「獅子王」
思い出したように呟いてから、噴き出した。この男は自分を王だと言っているのだろうか。なるほど、リュンヌはもう一度顔を上げ男をよく観察した。胸を張り、小さな子供に威張り散らすのはまさしく王かもしれない。
教会の外をあまり知らず、日々の仕事に追われるリュンヌは国の王など崇拝したことなど一度としてない。王とは国の象徴であり、遠い存在だ。崇高で潔癖。故に目の前にいる男が、衣服を汚れるのを気にせず汚い娘の手をためらいなく掴むのが信じられぬ。
「なんの御用ですか」
修道女の顔が一瞬で青ざめたのは言うまでもない。口元を歪ませ、身体を震わせている。
「お前を妻にする」
言うなり男は返事を聞かず懐に引き寄せる。その抑揚のなさと無表情さは、リュンヌの思考力を停止させた。反論する間さえなかった。彼は力を込めて抱きしめたのである。
厚い胸板に押し付けられ、さらに不快なにおいにさらされリュンヌはたまらずえづいた。
それから事はリュンヌの知らぬ間にどんどん進んでいき、流されるままに結婚の儀を迎えた。抱くのは王に対する思慕ではなく、嫌悪である。
式を挙げるまでの間、彼女は王の臣下がひとり惨殺された噂を耳にする。王に対する反逆罪ということらしいが、王自らが手を下したようである。他にも流血沙汰はあったようだ。後になってそれはリュンヌを排しようとする者たちへ制裁ということがわかっても、リュンヌは王を恐れずにいられなかった。守る理由が明らかになると、おそれと同時に哀れみを感じた。剣を向けなければリュンヌを思い通りにできず、しかし真実欲しいと思った女もまた彼は手に入れることができなかったのだ。
恨みは、した。この息苦しい城に押し込める王を。
だが王以外に恐れるものはなく、またリュンヌを害する者は視界にさえはいりはしなかったのだ。
やがて自分が王の想い人の子だとわかったとき、つらく悲しいと呟く自分がいた。彼は誰かと自分を重ねて見ている事実に、衝撃を受けはしたものの受け入れている自分にもまた驚いた。
次々と脳裏に浮かぶ情景。
剣を向けられ、恫喝されもした。彼が残した記憶はそれだけではない。優しく抱きしめられ、口付けをし、寄り添ってともに眠った。あの温かさは未だに忘れられない。
ふたり並んで椅子に座り、食事や酒を飲んで語った。散歩中には花の名前を知った。
最初は確かにアリシアンの身代わりだったかもしれぬが、王の愛を勝ち取ったのは事実である。
かけられた声の柔らかさ、
触れた唇、
抱き寄せるたくましい腕、
全てを忘れることなどできない。また、彼を哀れだとは、もう思わない。
リュンヌは目を閉じ、そっと王の遺体に顔を近づけた。薬の匂いが鼻をつく。知った酒の匂いは欠片も残っていない。
触れる唇。生暖かい涙が頬を伝い、遺体の顔に落ちる。
背後でヴィヴィアンヌが動く気配がする。奇妙な目で見ているのだろう。
わかるまい。
この男に憎悪を抱き、後に愛情を抱くなど。
――わかるまいっ。度し難いほどの後悔に喘いでいるなど。
城内は静まり返っている。
王妃と呼ばれた中年の女の動向に、皆固唾を飲んで見守っている。だがヴィヴィアンヌが背後に控えている以上、おかしな動きはないはず。
唇を離し、今一度王の顔を見る。眠っているように見える。
届くだろうか。
「あなた」
声は震えていたが、嘘偽りのない言葉である。
「お慕いしております、心から」
姉上、と声が聞こえてきたのはその時だ。
ずいぶんと幼さの残る声である。リュンヌは聞きなれない声に身体を強張らせ、ゆっくりと背後を振り返った。
「この度は、心よりお悔やみ申し上げる」
階の下で、喪服に身を包み腰に手をあて、台詞とは裏腹に不敵な笑みを浮かべてこちらを見上げている。リュンヌは立ち上がり、よくよく声の主を見下ろす。
あどけなさが残る少年だった。黒い短髪に、顔は小さく眼は大きい。すらりとした体躯に黒の衣装はとてもよく似合っていた。彼の背後には数人の護衛が控えている。おかしいのはその護衛の衣服にドグマニード家の紋章が入っていないことだった。
「姉、上?」
そういえばソレイユとの子も、成長すれば丁度これくらいの年齢になっているはずである。だが名を知らない。姉と呼ぶのはおそらくヴィヴィアンヌのことだろう。
そこでリュンヌは娘を振り返り助けを求めた。しかし、階を上ってきた少年はまっすぐリュンヌの元に歩み寄り、跪いた。彼の行為に護衛たちや、さらに城内の人間がざわつく。
「だれ」
不安をそのまま口にし、リュンヌは一歩しりぞいた。
「義兄上とは一度も話すことができず、とても残念に思います」
彼はリュンヌの手をとり、甲に口付けた。
視線をあわせると、だれかによく似ていると思った。
少年はにっこりと笑って自己紹介をした。その内容に、リュンヌのみならず城内の人間全てが驚きの声を発した。
「はじめまして、姉上。僕は第二十三代目シュジュル国、国王です」

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