|
娘を抱え上げ、窓に映るマリアが乗った馬車を見送った。憤慨して帰っていくのか、鞭打たれる馬が速度を上げる。
「マーリー、バイバイ」
何も知らない幼子は無邪気に手を振る。
「リュンヌ様、よろしいのですか」
恐る恐る背後から声をかけてくる侍女がいた。年配の女で、本城にいるときはマリアの下についていた。思慮深く、リュンヌを我が娘のように接している。
リュンヌは一度視線を落とし、次いでゆっくりと微笑む。
「いいの」
確固たる意志があった。ソレイユを正気に戻して王位に就かせるという。そのためにどれほど己が犠牲になろうが構いはしない。彼が現実に戻り、リュンヌを突き放すその日まで。
一度シュッダイナが彼に任せようとした政務の全ては今や投げ出され、結局シュッダイナがこなしている状態である。リュンヌには他の方法が思いつかない。もし腹に子ができたと言えば少しは違うだろうか、だが今は言えぬ。
リュンヌは背筋を伸ばした。マリアに王の剣先を二度と向けるつもりはない。対してこの侍女は共に覚悟を決めてくれたのだ。
アリシアン・リーは、かつて愛するシュッダイナに去り際、剣で斬れと言った。それは自分の死により心だけはシュッダイナのものだという宣言だった。にもかかわらず彼は斬らなかった。彼女の心よりも、命の方が――生きた彼女に想い焦がれる方を選んだのだ。
母親の事情を知っているだけに、この侍女はリュンヌのしていることを諌めない。たとえ侍女から母のことを聞かなかったとしても、選んだ道は変わりない。
アリシアンはさぞ絶望しただろう。彼女は恋人によって生かされ、愛してもいない男の元へと嫁がなくてはならなかったのだから。後に彼女は自らを宝石にたとえて再三愚痴を洩らしている。
――それを献上する男はだれでもいいわけではない。けれども宝石自身が行き先を決めることはできない。女は男に献上される生き物なのだ。
二度も裏切られたことで、シュッダイナはリュンヌを斬るだろう。想像するだけで身体が震える。娘と会える時間も残されていない。
「朝食の用意をしましょう」
侍女は一礼したに過ぎない。
リュンヌは唇を噛み締めた。
今泣くことはできない。まだなにも失っていないから。
吹雪く中、青年は現れた。マリアが憤慨して去った翌日のことである。
無精ひげが残り、髪も風に煽られてまとまりがない。防寒具の下の着衣は着崩しているというよりは乱れ、酒臭い。リュンヌたちはそれでも丁寧なお辞儀をして彼を迎え入れた。
青年はふらつく足取りを、壁を伝うことでどうにか歩くことができた。リュンヌは素早く彼を抱きとめ、震える身体に毛布をかけ、温かい飲み物を用意させるなど、実に甲斐甲斐しく動いた。さながら母のようである。
ふと彼が現れた雪道に目をやると、足跡は蛇行している。ため息が洩れる。こうして彼が現れるときには、必ず酔っているから。
世話を焼くリュンヌを、しかしソレイユはうるさいとばかりに払いのけた。支えを失った男は、勢いよく前のめりになる。それをすかさず支えようとしたが、男の体重を支えきれずに倒れこんだ。無意識のうちに腹を庇って。
騒ぎを聞きつけた年配の侍女が駆けつけ、リュンヌを抱き起こす。周囲に漂う酒の匂いに彼女もまた眉をしかめた。
侍女は手に持った燭台を脇にやり、腹を押さえてうめく王妃の顔を覗き込んだ。
「大丈夫」
それよりもと、視線をずらすとソレイユが頭を振り、雪の雫を撒き散らしていた。だらしなくその場に座り、うずくまって込み上げる吐き気と格闘している。赤ら顔の虚ろな目からは、彼が王族だと想像できない。
リュンヌは彼の口に指三本を喉奥まで突っ込んだ。途端、胃がひっくり返るような強烈な吐き気と共に腹がへこみ、その場で大量の吐しゃ物がぶちまけられる。酒の匂いに、苦く酸い匂いが加わるが、お構いなく身体を拭いていた布を床に置き、もう一度指を突っ込んだ。何度か男がえずき、ようやく治まったところで背中をさすってやる。侍女に持ってこさせた白湯を飲ませ、床の掃除はそこそこに彼の腕を首に回し、腰を支えて寝台に連れて行った。靴を脱がせ、着衣を整えて布団をかけてやるとどっと汗が流れた。
男はうめきながら寝台をごろごろと転がる。その様子を冷めた視線でリュンヌは見下ろしていた。
この男が次の王なのだ。
思うと胸が苦しく切ない。
リュンヌは寝台の端に腰掛け、男の金の髪をすいてやった。
当初、物腰の柔らかそうな男だと思った。リュンヌに対して、決して見下す風ではなく敬意を払い、手をとってくれた男である。愛する女を自ら他国へ嫁がせその訃報を聞き、絶望した。彼にはもう玉座しかない。
「ソレイユ……」
好きだと、愛していると何度ささやいても、彼は一度として正気であったためしがない。
嗚咽を堪えるその横で、ソレイユが寝返りを打つ。かすかに目を開き、現と幻の境界線をさまよっている。
「なぜ」
かすれた声であっても、彼の清涼感溢れる声にリュンヌはすぐさま反応した。
「気がつかれましたか」
彼の手を両手で包み込む。シュッダイナのそれとは違い、細く長い。
「泣くのです」
リュンヌは慌てて目元を拭う。涙が頬を伝ったわけではないが、おそらく目が潤んでいたのだろう。
「心配したからですよ」
微笑んで見せ、互いの顔がよく見えないようにリュンヌ燭台の位置をずらした。するとソレイユは目を細めてリュンヌの顔をよく見ようとしていた。リュンヌはわずかに身体を引く。
「まだ、あなたは自身をサリエヌだと偽るのですか」
ほうっと息をはくような頼りなさで、彼は呟いた。
「!」
リュンヌの手を強く握り返し、眉根を寄せる。
「いつまで僕は、サリエヌにつなぎとめられなければならないのですか」
「……」
サリエヌという鎖につなぎとめていたのは、紛れもなくリュンヌである。だがそれを望んだのはソレイユだったではないか。
「僕は、本当に彼女が大事で愛していたんですよ」
触れると拒まれましたけど、かすかに呟くソレイユは自嘲した。
「だから彼女が僕を優しく抱いてくれるなど、たとえ夢でもありえない」
もう、こんな残酷な夢を突きつけるのは止めてくれ。
けれど、と彼は続ける。
「僕はあなたの好意に甘えていました。もう、最後にします。もう一度、サリエヌとして僕に抱かれてくれませんか」
とうとうこの日がやってきた。彼は正気に返り、リュンヌを突き放す。
男の目が赤く潤んでいたのは、なにも酔いのせいばかりではないだろう。
「私にはっ」
喉をひきつらせて、咄嗟に出ようとした言葉を慌てて抑止する。思わず腹を押さえた。子を宿すことが目的ではなかったはずだ。
ソレイユは片肘をついて上体を起こし、手で顔を覆った。
「そうでなければ、お互いに辛いでしょう」
リュンヌは一瞬瞠目した。男の震える肩にそっと手を置く。言外に含む彼の想いを知れただけで充分だと思った。
「最後にしましたら、立ち直れますか?」
ソレイユは頷く。
「シュッダイナの助けとなってくれますか」
これにも彼は頷いた。
幼子を説得しているようだ。別れの時が近付いている。
独り占めしていたと思っていた彼の心は、やはり最後まで手には入らなかった。だが自分には彼の子がいる。
優しく腰を引き寄せられた。口付けは望んでこたえる。彼の後頭部に手を回し、強く抱きしめた。酒の匂いと味が口内に広がり、顔をしかめる。
彼の愛撫ひとつひとつがもどかしく、リュンヌは自分の襟元に手をかけた。その時である。
侍女の悲鳴と荒々しく廊下を歩く男の足音が響いた。
なんの予告もなく木の扉が開かれる。
ぬっと入り口に現れたのは、鼻息荒く肩に大量の雪を乗せたシュッダイナであった。彼は瞬時にふたりの姿をみとめ、大きく鼻から息を吐き出した。今にも目玉が飛び出さんばかりの形相に、しかしリュンヌははだけた前をかき合わせて対峙した。
王を追いかけてきた侍女が慌てふためいて追いつく。侍女を一瞥した。暴力を受けた形跡はなかった。マリアからの報告を受け、彼は丸腰で事実を確認しに来たに違いない。
リュンヌは無表情を装う顔のわりに、心臓は早鐘を打っていた。
彼の侵入と同時に、凍える夜気が入り込んでくる。
侍女を含む四人は、一言も発することができずに立ち尽くした。
「リュンヌ」
低くしゃがれた王の声が届く。
寝台に寄り添う若者達は、誰の目から見てもふたりの関係は明らかだった。にもかかわらず、シュッダイナは怒鳴ることもなくふたりを引き離すこともしなかった。王は仁王立ちで見下ろす。無言はとてつもない威圧を周囲に発していた。
「言い訳は」
王がうなり、リュンヌはすぐさま首を振った。
「ございません」
ふたりに漂う張り詰めた空気は、侍女やソレイユでさえ介入できなかった。
リュンヌは王に睨まれながらも、決して無様ではない。しゃんと姿勢を正し、己が行っているすべてに責任を負う気迫があらわれている。
王は笑った。卑屈でもなく、不敵でもなく、心底おかしいとでも言うように。彼の視線は、リュンヌの肩越しの向こうにあった。
「っはっはははははっ」
その呵呵大笑は舘全体に響き渡り、窓が震えるほどだった。
リュンヌは目を閉じ、先日もらったペンダントを握り締めた。彼からの真心を、踏みにじっているというのに。
けれども王と王妃の間に流れるのは、憎しみではなかった。同時にソレイユと王の間にも、女を取り合う敗者、勝者のそれではなく、事実のみが存在していた。
やがて王の笑い声も止まり、彼は再び妻を見た。大事そうに握り締める存在を、満足そうに見つめる。
「それはお前のものだ。代々王の妻に受け継がれるものだ。ゆめゆめ忘れるな」
最後まで妻の不貞に対して触れることなく、王は背を向けた。うなだれるでなく、胸を張って堂々と退室する。リュンヌはその背に声をかけることすらできなかった。否、自分の意志によってしなかった。
言葉を交わすことはなくとも、これが決別であると確信する。
王はリュンヌを斬り捨てることはしなかった。それだけがわかったことだった。

back 目次 next
←ランキングに参加中
素材提供:Heaven's Garden様
|