|
噂を聞きつけたのだろう。本城に残っていたマリアが、防寒もそこそこに慌てた様子で舘の中に駆けつけてきた。真っ白い雪原は醜く足跡で汚されている。
道中、すぐにでも爆発しそうな感のある彼女に周囲はおびえたに違いない。
まだ陽が昇りきらぬ時刻である。馬も白い息を吐き出し、忙しなく足踏みをしている。供の人間はいなかった。それでは彼女が手綱を操ったということか。
リュンヌは彼女の慌て振りを冷ややかに見つめ、持っていた水汲み用の桶を抱えなおした。
それにしてもなんと遅い到着だろう。リュンヌは口元を歪めた。
「リュンヌ様」
悲鳴にも似たマリアの叫びに、咄嗟にリュンヌは口に人差し指を当て、背後を伺う。まだ娘は眠っているのだ。
「ああ、失礼致しました」
マリアはばつが悪そうに一歩後退した。
ぱちぱちとはぜる音が暖炉から聞こえてくる。十一月を過ぎると、終日火を絶やさないようにしなければならない。まだ夜だけ暖をとればいい本城の気候とはだいぶ違う。故にマリアの軽装も頷ける。
「どうしたの」
切羽詰ったマリアの形相に、リュンヌは目を細め穏やかに問う。そののんびりとした口調が気に入らなかったのか、マリアは激しく靴音を響かせ詰め寄った。部屋の温度によって溶かされた雪が雫となって靴から飛び散る。
「あれほど申しましたのにっ」
「なにを今さら」
ふん、とおとがいを反らして鼻でせせら笑う。
マリアが絶句した。目を開き、喉をひきつらせる。かつてこれほどまでに激怒した侍女頭を見たことがあるだろうか。
「今すぐ、その関係を断ち切るべきです」
「……」
リュンヌは床に視線をさまよわせ、ふっと吹きだした。
「できないわ」
「なんてことっ」
「あの人を放っておくことができないもの」
目を離せば慟哭しそうな勢いの、か弱き肩を放置できようか。リュンヌの庇護のもと、それはあってはならない。自分が悪者になって彼を守れるのならば、いくらでも。
マリアはため息とともに、諭すような口調で言う。
「それは愛ではありません」
「そのようね。でも愛しているわ」
けれども王妃は、なんと無慈悲にこたえるのだろうか。
「王がお許しになるはずはありません」
「私の気持ちは私のものよ。たとえ王であるシュッダイナにも動かせないわ」
「王はあなたを愛しております」
半日もかかる道のりを足繁く通うのは、他の誰のためでもない。
「知っている。私もソレイユとは違った意味で愛しているわ」
ようやく愛せそうだった。
「裏切るおつもりですか。あなたはだれですか、そこらへんに住まうただの女ではないのですよっ」
「女よ、ただの」
言い切り、それ以上の口論は無駄とばかりにリュンヌは目を閉じた。マリアは肩を落としうなだれる。
「サリエヌ様は、女を捨て、シュジュル国に嫁いだというのに」
「……」
あげく死んだではないか、言いそうになる口をぐっとつぐむ。
「あなたはっ」
マリアはリュンヌの肩に掴みかかり、前後に揺さぶった。
「女を捨てた――己の意思で、と。でもそうさせたのは、そう言わせざるを得なかったのは、あなた達のせいでしょう。あの人は、私に私であるよう促したのよ。たとえそれがほんの遊びからくるものでも。あの人は自身の想いを私に預けることで、ようやく女になったのよ。女を捨てたのではないわ、そうさせられていたの」
思い返せば、サリエヌはシュッダイナが甘党だということで焼き菓子をなんども差し入れた。自分の夫を快くリュンヌに引き合わせ、その条件にシュッダイナに優しくしろなどなんという条件だったのだろう。
――二度と会えなくなるのなら、それこそ一生不幸じゃないっ。
一目見るだけ、元妻として、友人として。
叫び、手当たり次第ものを投げつけ、度数の高い酒を飲み、しかしながら自身の想いをすべてぶちまけられなかったサリエヌはなんと――なんと悲しいのだろうか。
シュッダイナには届くまい。
マリアは信じられないという表情で王妃を見た。やがてあきらめたように首を振り、睨みつける。
受けるリュンヌの目は、まだ二十歳に満たないというのに慈愛に溢れ、威厳があり、何事も受け止める度量を持ち合わせていた。
「私は王に報告します」
最後の手段だとでもいうのだろうか。リュンヌはおかしくて喉奥が震えるのを感じた。
いつの間にか周囲には舘に住まう侍女たちが集まってきていた。彼等は一様に不安そうな表情で、胸の前で手を合わせてこちらを伺っている。誰も王妃に味方する人間はいない。
またマリアの態度を諌める者もいない。
火がはぜる。
朝食の用意はだれがするのだ。そろそろヴィヴィアンヌが起きてくる時間だというのに。
「好きなように」
突き放すように言うと、ますますマリアの表情が凍りつく。
リュンヌは床を見つめた。言葉をいくらか選び、結局伝えないことを決意すると、顔を上げ晴れ晴れとした表情になった。代わりに差し障りのない挨拶がするりと口からこぼれる。
「今まで、ありがとう」
王妃の声は、かつて自分に自信がなくマリアに頼りきっていたあの頃のものだ。声の調子が変わったことにマリアは気がついただろうか。言外に含まれるものを感じ取ることができただろうか。たとえわかったとしても、確認し合うことはできずにいた。二度と会うことはなかったのである。

back 目次 next
←ランキングに参加中
素材提供:Heaven's Garden様
|