第五章 暗転 3 back next

 十ニ月半ばを過ぎ、舘での生活も慣れ始めた。生活は慎ましく、自給自足でまかなう。常駐管理を引き受けていた老夫婦は、リュンヌと数人の侍女を快く受け入れ、まるで昔からの家族のように共に過ごした。その間、シュッダイナは時々様子を見にきては、一晩泊まって城へ帰る。
「シュジュル王が死んだ」
 なんの感情も込められずシュッダイナが言ったのは、舘に来て一ヶ月後ぐらいだったか。リュンヌの父であると知らせたときと同様の重さと軽さを含み、返答に窮するほどだった。顔も知らず思い出もなにもない。父だと自覚するには記憶があまりにもなさ過ぎた。母は一度でも父のことを語っただろうか。だが今はサリエヌを殺した憎むべき男として認識している。
 反抗的な態度のサリエヌに、シュジュル王からの虐待は止まらなかったという。彼女は耐え切れず、関係を強要するシュジュル王の性器を噛み切った。その傷から感染症になり死んだ。王は死の間際、自身の娘を探す触れを出したそうだ。見つかればどのような責め苦が待っているか見当がつかない。シュッダイナが辺境の土地にリュンヌを追いやった理由がそれだ。アリシアンは死の直前、リュンヌを教会に預けた経緯を思えば、考えられないことでもない。
 いよいよ寒さは突き刺さる硝子のごとく鋭利で、かじかむ手は休む暇もなく水仕事に精を出す。農具を床に置き、窓の外を眺めれば厚着をした娘が白い息を不思議そうに見つめて、掴もうと手をのばしたりして遊んでいる最中であった。
 うら寂しい場所である。セロール街の南に位置し、急峻な山の中腹にある舘は、街を一望できはするけれども、玉座からの眺望に似て人のぬくもりが届かぬ場所でもあった。朝は恐ろしいほど早く訪れ、夜はあっという間にやってくる。
 舘での生活は城よりも気は楽であった。ここではリュンヌもひとりの働き手として田畑を耕す。だがふと気を抜いた瞬間、自分でも驚くほどの無意識さで本城の位置を探していた。誰かの顔が浮かんだわけではない。帰りたいと思ったわけではない。むしろ王妃になる以前には当たり前の仕事だったので、苦に感じたこともない。ただ――、
 泣きそうになるのだ。
 悔しく、悲しい。切なく胸が痛み、どうしようもないほどの不安に囚われる。
 彼の台詞は、いまさらながらに刃物となって突き刺さる。攻撃的で、殺傷能力が高く、いつまでも残留する毒を含んで身体中を駆け巡る。
 
――アリシアン・リーにつながる全てを消してしまいたいと――。

 ソレイユはこれからも決してアリシアンを、リュンヌを否定し続けるのだろう。
「リュンヌ」
けれども奈落に突き落とされながら唯一救いの光だったのは、シュッダイナの一言である。愛など含まなくとも、自分が生まれてくれてよかったと言ったのは生涯に母とシュッダイナだけであろう。
「いらしたのですか」
 気配に振り返ると、娘に肩に乗せる夫がいた。身なりを整える時間も惜しいとばかり、彼は旅装束のままである。
リュンヌは吸い寄せられるようにシュッダイナに近付いた。燃え上がるような愛はない。しかし娘を挟んで夫婦寄り添うのもまた愛の証ではなかったか。
 彼女は娘に注ぐ愛を与えるほど、それを補うためにシュッダイナを求めた。それは親なし子特有の飢えであり、甘えであったのかもしれない。なるほど、抱きしめられる居心地の良さは手放せぬ。
 シュジュル国の王が死に、城に帰るよう促されたがリュンヌは頑なに断った。自分が本城にいることで、ソレイユに与える影響は計り知れないものだと思ったからである。なによりこちらの生活の方が性にあっている。
 リュンヌはシュッダイナのぶ厚い胸の中に頬を預けた。母を愛した男は、その娘までを愛している、女として。身代わりなのだろうか、いや、そうではないと願いたい。
 胸のあたりで金属がこすれる音がする。手にとって改めて眺めてみる。赤い宝石がはめ込まれたペンダントだった。鎖はシンプルだが、石をはめ込む台座には王家の紋章が彫られている。ドグマニード王家の妻に継がれる代物だとシュッダイナは言った。つい最近までシュッダイナの手元にあり、過去の妻たちには一度として見せたことのないものだとも。
 本来ならば、アリシアンの首を飾るはずだった。だが渡したところで彼女は手に入れられないのだと気がついたとき、それは彼の中で一気に価値を失った――はずだった。想い人が新たに現れれば、再び所有の証となる。リュンヌは言われるまま身につけ、同時に母を想った。彼女はなぜシュッダイナの元へ嫁がなかったのだろうか。
 夫との時は緩やかに流れていく。彼はリュンヌを優しくかき抱き、同じ寝台で親子三人眠った。彼の望む最終の形であるかのように、それ以上の行為はなかった。夜は穏やかに過ぎていく。

 

 血の味を甘美だと思ったことはなく、やはり苦いものだと確信する。
 シュッダイナが城に帰った数日後のことである。
夜半、忍び込んできた若い男を、リュンヌはためらいなく自身の部屋に招きいれた。彼の身体は外気によって冷やされていた。背後には月夜に青白く光る雪原が広がっている。
蝋燭の光は曖昧に男を照らし、ひときわ鮮やかな彼の目が浮かび上がる。そのすぐ下に、顔を縦断する大きな傷。リュンヌが舘に移り住んでから、彼はたびたび訪れるようになった。
男は無言で荒々しくリュンヌを抱きしめた。男の衣服は冷たく、外には二頭の馬がひく馬車が見える。衣服を脱ぐのももどかしく、男はリュンヌの両腕の自由を奪い、乱暴に壁に押し付けそのまま寝台に押し倒した。
 覆いかぶさってくる金の髪の青年は、わずかに震えながら怒気を含んで爪をたてる。首筋には牙を食い込ませ、肉を食いちぎるかと思うほどリュンヌに痛みを与えた。
「ソレイユ」
 彼女は彼の後頭部の髪を優しくすいてやる。先ほどの噛み付くような口付けに唇を切ってしまった。鉄の味がじんわりと口の中に広がる。
 想いの行き場を失った男は、度し難いほど愚かな行動に走る。彼にとってサリエヌの死は重すぎ、背負いきれるほどのものではなかった。
 それほどまでに、と思わなくもない。むしろ両親の死になんとも感じない自分の方こそ感情が麻痺しているのではないか。彼には立ち直る時間が必要なのだ。
 シュッダイナと過ごす穏やかで優しい時間も好きだ。だがこうして求められる時間は、もっと甘い。だれが拒めようか。
 男の肩越しに窓から見える白い月が浮かんでいた。月は口を開かず、犯した罪を見つめる。
――所詮、お前と私にソレイユは救えまい。
 自嘲気味に苦笑した。こんな姿、娘にはとても見せられない。
刺さるような冷たい夜気にもかかわらず、互いの肌は熱を持っていた。
リュンヌは胸元のペンダントを握り締めた。生暖かい男の舌が這い回り、やがて握り締めた手の甲に到達して、噛み付いた。
「サリエヌ、――サリエヌ」
 好きな男を受け入れることは、最上の喜びかに思われた。けれどもリュンヌは常に誰かの身代わりでしかない。男の後頭部を両手で引き寄せることで、込み上げるなにかを必死でこらえようとした。
 切なく喘ぐ男は、一度たりともリュンヌの名を呼ばない。彼はなんども彼女の中で果てたにも関わらず。
「身代わりでもなんでも構いません。私はあなたを――」
 シュッダイナには抱かない胸が締め付けられるほどの切ない傷みを、泣きたくなるほど会いたいという感情も、他の女を想う男を憎むこともすべて教えてくれたのはソレイユだ。
 想いは通じなくとも、身体では交じり合える。
 月経が先月から止まっていることを、リュンヌはひたすら隠し通していた。シュッダイナとの関係はなく、父親の正体は容易に知れる。
「愛していますから」
 言えば男は震える。罪悪感からか、それとも歓喜に打ち震えているのか。
 リュンヌはぼんやりと月を見上げるのを止めた。そしてむさぼるように食いつくソレイユの頭を押さえ引き離す。彼は素直に視線を合わせてくれた。
 指先で男の傷をなぞる。
「愛していると言って」
 たとえ、彼の中で存在を認められなくとも。
「――愛している」
 間をいれず抑揚なく口にする言葉の重みのせいで、リュンヌは彼を手放すことができない。どちらも欲しいのだ。シュッダイナに寄り添う安らぎも、ソレイユに抱く情熱も。

 翌朝、寝台にはぬくもりとともに男の姿はなかった。リュンヌは情事の後始末を手早く済ませ、何事もなかったように一日をはじめる。自然と腹に手をあてる。舘の侍女たちは密かに彼等の情事に気がついているだろう。また彼女の妊娠についても。
 シュッダイナが気付くのも時間の問題だった。彼は切り捨てるだろうか。

 

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素材提供:Heaven's Garden様

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