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耳元で誰かの声が聞こえた気がした。
振り返ってみてもだれもいないことはわかっているのだ。だが確認せずにはいられない。
サリエヌの小ばかにしたような声が、聞きたいと切に願った。
「遺体の損傷は激しく、本人だと断定するまでずいぶん時間がかかりました」
決め手になったのは、ほくろの位置とシュジュル国の刻印がある腕輪だったという。遺体を見つけた場所は、シュジュルと物資輸送に使う道端である。
髪はまだらに剃られ、顔の半分は焼け爛れていた。身体はやせ細りいたるところに古い傷跡があることから、虐待は日常茶飯事だったと伺える。
金に輝く光が見え、ちらりと視線をやるとソレイユが睨むようにこちらを見つめていた。彼はこちらに近寄ってくることはなく、遠巻きにリュンヌたちをの様子を伺っているようだった。態度や表情からして彼もサリエヌの死を知っているのだろう。リュンヌは慰めの言葉を言おうとして、まったく思いつかなかった。
「それから」
臣下のひとりが王に報告する横で、リュンヌは口元に手をあててかがみこんだ。マリアの手が背中に置かれる。彼女とて平静ではいられないだろうに。
「ママ」
遠い廊下の方からヴィヴィアンヌの頼りなげな声が聞こえてきた。侍女が上手く対処してくれればよいが。今は娘を抱きしめる気にもなれない。
しかしはっと気がついて、顔を上げた。
「子供は? サリエヌに子供がいたはずです」
臣下はこちらを振り返って、二度首を横に振った。
「わかりません。ですが、死亡したという報告もありません」
それだけでは不安が拭い去れぬ。日常的な虐待があるなど、彼女は一言も手紙に書いてはいなかった。幸せだと記していたのは、嘘だったのか。では子供がいることも。いや、彼女は子供を見せに来ると断言していた。
「ママ」
侍女の腕を無理やり振り払い、駆け寄ってくる我が子が目の前にいた。母の泣きそうな顔に、ヴィヴィアンヌは不安に駆られた表情をする。
「ぽんぽん痛い?」
小さく柔らかな手がリュンヌの頭を撫でる。
子供の前で泣いたことなどリュンヌはなかった。こんな愛らしく小さな命の前でなにを泣くことがあるだろう。
「そうだ、ママは怖い夢を見たのだ」
「怖い? 怪獣ガオー?」
シュッダイナは臣下を押しのけ、ヴィヴィアンヌを抱き上げた。
「ヴィヴィ強いよ。ヤー! トォー」
拳を突き出し足を振り上げる仕草を繰り返す娘を、シュッダイナは実に手際よくなだめた。
「もうひとつ。これは出入りのある商人からの話ですが、大量の抗生剤が買われたということです。噂では、シュジュル国王も重症を負っていると。原因はよくわかりませんが」
臣下は王の背中に声をかけた。
「事実確認を急げ」
「はっ」
踵を返す臣下を振り返りもせず、王は深いため息を吐き出した。ついでリュンヌを抱きとめる。
「ママぁ、怪獣いないよぉ。ヴィヴィやっつけるからね。怖くないよぉ」
「そろそろ昼食の時間だ。怪獣をやっつけるためには、食事も欠かせんからな」
「一杯食べて一杯やっつけるっ」
「リュンヌ、せめて子供の前では毅然とせよ。このことにヴィヴィは一切関係ない」
ひどい、よくも無神経なことが言える。リュンヌはきっと王をにらみつけた。けれども間近でまん丸の子供の目がある。子供は母親の形相におびえた。
ヴィヴィアンヌはこけてすりむいたときでさえ泣きはしない。自分で起き上がり、汚れた手足を払ってまた走り出す子供だ。なのに母親の気持ち次第で、簡単に不安定になる。リュンヌはぐっと堪えた。腹がきりきりと痛む。言いたいことを飲み込んで我慢するのは、子供のためだ。
「大丈夫?」
王は子供を抱えたまま、リュンヌに背を向けたというのにヴィヴィアンヌは母親に向かって手を伸ばす。
「ママ、痛い痛い」
見ればヴィヴィアンヌは空中で何かを撫でる仕草をし、ついで投げる仕草を繰り返した。どうやら痛いの痛いの飛んで行けというのを必死でやっているらしい。
リュンヌは無理して笑顔を作り、立ち上がって手を振りさえした。彼等の姿が見えなくなると、途端に力が抜け壁に寄りかかった。涙は流れなかった。
子供を連れて一時別荘にて過ごすように、王が言った。本城から馬車で半日かかる場所だという。
ヴィヴィアンヌのために寝台横で本を読み終わったときである。こじんまりとした子供部屋に王が入るなり、開口一番に告げたのだ。
高地にあるため、真夏でも肌寒い。そんなところへ、これから冬になろうとしているのに子供をつれて過ごせと。
王を照らし出すには、蝋燭の光だけでは弱すぎる。リュンヌは王を正面にして座りなおした。彼は子供の寝顔にふっと笑う。小さな手を弄び、寝息を聞くためか耳をそばだてる。
「なぜです」
行けと言われれば行く。だが今聞きたいことではなかった。ゆえに声音は厳しい。
王は子供から身体を離し、振り返らずにこたえた。
「余生を共に過ごしたい場所があると、昼間言っていただろう? 夜はここよりも星が大きく輝いて見える。空気は澄み、聞こえるのは小鳥のさえずりだ。冬になれば多少の我慢は必要かもしれんが、一面に広がる白い世界には圧倒される」
その声には抑揚がなく、たとえ同じ話であろうと希望に胸を膨らませた昼間の声音とは程遠い。すぐに嘘だとわかってしまう。だが王はリュンヌの責めるような態度にそ知らぬふりをして、子供の髪をすいてやった。
沈黙は、確かに互いの胸中とは裏腹に表面上は静かである。
王は逡巡するかのように周囲を見回した。懐かしむように壁の装飾に見入る。
「確かに生活の面では、多大な不便をかけることになるだろう。食事も質素になり、今までのように欲しいものも思うように手に入らなくなる。もっとも、おまえは一度としてわしに何かをねだったことはないがな」
なにも欲しくないわけではない。欲しいと思ったものが、言ったところで手に入らないのだと知っている。
「ではサリエヌの死の詳細を教えてくださいませ」
自分だけ彼女の死から蚊帳の外は我慢ができない。
「ならぬ」
即答にリュンヌは思わず立ち上がった。
「後生です。他のなにもいりません」
金切り声に眠っていたヴィヴィアンヌが身じろぎする。ふたりは顔を見合わせ、互いに苦虫をすり潰したような表情を作った。彼女は昼の時より、サリエヌの死についてなにも知らされていなかった。
「そんなことより、明日ここを発つのだ」
「そんなことって……」
彼女の死がひどく軽いものになってしまったことに、リュンヌはきりっと胸が痛んだ。
「行けっ」
反論する間もなく痺れをきらした王が怒鳴る。リュンヌは一瞬息を飲み込み、瞠目した。
納得できない。従うものか。
「……ぁ」
すすり泣きが割って入る。見ればヴィヴィアンヌがシーツをギュッと握りしめ、身体を丸くさせていた。なにか怖い夢でも見ているのか、それとも王の怒鳴り声が彼女の夢に介入したのか。
王は娘を見て一度大きく息を吐き出した。
「お前の身を守るためだと言えば承知してくれるか」
話がかみ合わない。リュンヌはただサリエヌの死の原因を知りたいだけである。
「サリエヌとお前の顔が似ているのは自覚しているな」
なにをいまさら、リュンヌは一呼吸おいて頷いた。
「シュジュル国の妻も似ているのだよ」
観念したように彼はようやく重荷を吐き出した。
彼女は数回瞬いた。けれども話がつながらない。
「当然だ、お前は。アリィ……、アリシアン・リーはシュジュル国の王妃であり、つまりはお前の母なのだから」

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