第四章 獅子と月と太陽 4 back next

 床に血が落ちている。リュンヌは屈んで確認してみた。
 半ば固まりかけ、爪でこすれば粉状になる。
 血さえもいとおしい。
 リュンヌは指先についた血を守るように、反対の手で覆い頬に押し当てた。そこは先ほど王が接吻した場所でもある。やがてそれも飽くと踵を返す。
 目の前にある寝室への扉は、大きく立ちはだかっているように見え、ぞくりと肌が粟立った。ドアノブに手をかけると、金属のかたく冷たさに手が震える。
 中へ入ると、オレンジ色の優しい光が複数あった。
 小窓の外は蒼と白に近いグラデーションで、輝く星が散りばめられている。月は東の端からようやく顔を出していた。
「お加減はずいぶんよくなったようですね」
 寝室と客をもてなす小部屋を仕切るボルドー色のカーテンから、ソレイユが顔を覗かせた。褪せることない金の髪は、蝋燭の炎に染められまるで燃える太陽のようだった。
 彼の傷はそれほど深くはなかったが、間近で見ると彼の受けている傷みが自分にも感じるようで慌てて視線を逸らす。そういえば、マリアが頬に受けた傷は長い間消えることはなかったことを思い出した。
 リュンヌはソレイユに一歩近付き、恐る恐る傷に触れた。瞬間、彼は顔を歪めはしたものの振り払うことはしなかった。逆にそのか細い腕を掴み、引き寄せると小さな胸に顔を埋めてきた。
 王妃は顔を赤らめ、込み上げる歓喜に打ち震えたがやがてソレイユこそ小刻みに震えていることに気がついた。
「傷が痛むのですか?」
 リュンヌは彼の傷跡を見ようとソレイユの抱擁から抜け出し、懐にかがみこんだ。
「いいえ、サリエヌを失って悲しいのです」
 その台詞はリュンヌに衝撃を与えたが、与えただけでありそれ以上の感情は沸きあがらなかった。サリエヌを失った悲しみは、リュンヌとて同じであった。
「できることならばあなたを苦しめてやりたい」
「ソレイユ」
 のどの奥から搾り出すような、うめき声とも取れるソレイユの声音に、リュンヌは怯え驚き、しかし慈愛を込めて見つめた。脈絡のない切り出しだったが、それが返ってソレイユの心情が限界きわまって吐き出されたのだと感じた。
「いや、元はといえばアリシアン・リーが全て悪いのです」
「アリシアン……」
 名に聞き覚えはなかった。だがその人物が彼を苦しめるのならば、一刻も早い対応が必要だ。それがサリエヌや自分にどう関わっていくのかは不明であるにしろ、男がたやすく涙を見せるなど尋常ではないと思うのだ。
「それはあなたの力ではどうにもできないのですか? ならば、私が王にお願いしてみましょう」
「今はあなたが居なくなればと切に願いますよ」
 リュンヌには返答のしようがなかった。ごくりと唾を飲み込み、言葉を脳裏で反芻する。
 表情が強張った中で、リュンヌは努めて平静を保とうとした。
「あなたの顔が嫌いです」
 が、彼はリュンヌをどうしようもないところまで追い詰める。
 過去に同じことをサリエヌに言われはしたが、その意味合いは彼女と同じなのだろうか。
「おっしゃる意味がわかりかねます」
「あなたの存在を、いえ、アリシアン・リーを。また彼女につながるすべてを消してしまいたいと――思っています」
 不意に視界が遮られ、両の手首を掴まれた。壁に押し付けられ、抵抗する間もなく唇を奪われる。彼の外見とは裏腹に荒々しい口付けだった。まるで奪うように、噛み付くように。だがそこに愛や思いやりなどは一切なかった。彼の都合を押し付けられているに過ぎない。
 リュンヌは息苦しさにもだえ、必死でソレイユを押し返そうとした。だが男の力にか弱い女の力が叶うはずがない。しかもリュンヌは身重の身で、身体を急に動かしたりすることが無理なのだ。マリアに助けを請おうとしたとき、
「叔父にとってあなたはアリィの代わりだった。僕にとってあなたはサリエヌの代わりだ」
 この台詞は残酷なのだろうか。リュンヌはしばし思考を停止した。
 ソレイユの瞳は憂いをおびうるんでいる。彼女は湧き上がる怖気に、数歩後ずさりした。彼が男であるゆえに女に対する非情な行為を強いろうとしている。
 顔を歪めたせいか傷口が開き、血が流れ出ていた。彼が歩いた分、血は雫となって落ちる。彼の表情は鬼気迫るものがあった。
 リュンヌは母親の本能で、咄嗟に腹をかばった。そのことでソレイユははっとなって動きが止まる。口では笑い、だが今にも泣き出しそうな彼に、リュンヌは一歩近付いた。
 力を失いその場に崩れ落ちる男の姿は、哀れとしか言いようがなかった。恐怖はたちまちのうちに退いた。
 リュンヌは彼の目の前で膝をつく。
「サリエヌの代わりでも構いません」
 男がそろそろと顔を上げる。
「どんなに憎しみの言葉を投げつけられようと」
 自分への憎悪の言葉さえ、彼からのものならなんでも欲しかった。
「私がサリエヌの代わりにあなたを愛しましょう」

 

 彼女ならば知っていると思った。
「ねぇ、恋ってどんなもの」
 自分より年上で、それなりの経験もあるだろうと思われた。けれど彼女は窓枠に肘をつき、遠い目をして呟くのだ。リュンヌは耳を疑った。
 最後の朝食を共にする前日のことである。
「恋ってなにかしら?」
 サリエヌは言ってから振り返り、リュンヌを痛いほど見つめた。
 空は晴れ渡り、雲ひとつないすがすがしい日だった。
 この日に洗濯物の全てをやってしまおうと、侍女たちは朝から忙しそうに立ち回っている。その忙しさにサリエヌとリュンヌは取り残されていた。
 彼女は朝から騒々しい部屋に苛立ち、後宮を訪ねて来た。とはいっても会話は弾むことはなく、始終彼女は考えにふけってリュンヌの存在を無視しているかのように思われた。だが突然そのように聞いてきたものだから、リュンヌは飲みかけの紅茶を危うくこぼしそうになる。
「恋とは」
 真面目にこたえそうになって口をつぐむ。サリエヌの性格上、からかっているだけかもしれないからだ。だがまっすぐ向かってくる彼女の視線は痛いほどで、リュンヌは胸のあたりがきゅっとせつなく締め付けられた。
 胸の前で手を組み、リュンヌはそっと言う。
「相手を常に目で追いかけたり、その方のことを常に考えたり、話しかけられるとうれしかったり。……相手の顔が見えないだけで、一日が不幸ですわ」
「なにそれ。そんなことで不幸なわけないのに」
 サリエヌは一蹴した。けれど思うところがあったのか、それ以上は口を閉じた。
「自分だけのものにしたいと、思いますし」
 サリエヌは目を見開き、その答えを小さく反復した。
「あいつを、そう思っているの?」
「いつもソレイユ様に抱きしめてもらいたいと、私だけを見て欲しいと不遜ながら思っています」
「あはっ、男が女を抱きしめる理由に恋があるっていうの? 聞いていると恋っていうのは欲望にすり替えられるわね」
 リュンヌは曖昧に笑った。たしかに自分だけを見て欲しいなど、欲以外になんと言えるだろうか。
「そんなもの」
 喉をひきつらせたサリエヌは笑いをぴたりと止めた。背を向け、靴音を響かせてしばらく室内を歩き回った。きょろきょろと周囲を見渡し、触れることができる全てのものを手当たり次第に投げつけ始めた。
 硬質な響きが室内に響き渡る。その回数も一回に留まらず、二回三回……サリエヌの気の済むまで続いた。床一面には陶器の破片が散乱し、生花が無残に引きちぎられ花弁を散らしている。テーブルに置かれたワインや紅茶はぶちまけられ、壁に染みを作った。
 投げるものがなくなるとようやくサリエヌは動きを止め、部屋の中央で奇声をあげた。ついで突っ伏し大声で泣き始めたのだ。
 それは後宮の外まで響き、衛兵たちが駆けつけるのに時間はかからなかった。
 侍女たちはそれぞれの仕事から引き上げ、真っ先にサリエヌの元に駆け寄る。マリアだけはリュンヌを庇うように立ち、冷静にサリエヌを見下ろしていた。
「二度と会えなくなるのなら、それこそ一生不幸じゃないっ」
 おろおろする侍女を振り払い、サリエヌは駆け出し後宮を後にした。
 嵐が過ぎ去った後のように散らかる部屋の中で、リュンヌは呆気にとられて立ち尽くす。一歩踏み出せば、じゃりっと耳障りな音が続いた。
「一生人形であれば、ある意味幸せであったものを」
 それは押し殺したマリアの声だった。
 


 覚悟のいる決意である。
 サリエヌの代わりに愛するなど、また誰かの代わりになるのか。自分の心に問うてリュンヌは苦笑いをした。
 だが彼の取り乱した姿は、親鳥を絶えず求めるヒナのようで守ってあげなければと思ったのだ。それは愛でも恋でもない。与えるのは情である。
 今目の前で取り乱すソレイユは、恋すらできないサリエヌのようだった。
「サリエヌは決して僕を愛してはくれなかった。そして僕を許しはしないだろう」
「なぜ」
 教会で牧師がするように、ソレイユを跪かせ自分は優しく言葉を導く。
「抱けなかったからです」
 ああ、月が決して共にありえぬ太陽を追い求める。夜には咆哮をあげる獅子の勇ましい背が月明かりに照らされて。獅子の開けた口に、まるで食われるように月がかかる。
 リュンヌは目を細めた。彼が抱く罪悪感は、リュンヌがサリエヌに対する罪悪感とは真逆のものだった。
「僕にとって彼女は大切な大切な女性でした。――女になれば新たに嫁ぐ必要もなかった。けれどもその理由で抱くことは出来なかった」
「ならば王とて罪深い」
「叔父は彼女を抱かなかった。僕は抱けなかった」
「……」
「サリエヌは僕を愛してはくれなかった」
 縋りつき、嗚咽を洩らしながら崩れ落ちる様は、見ていて無様であった。
 恋を知ったというのに、女には決してなることはできなかった。故に、
「私たちは、サリエヌになんとむごい仕打ちをしたのでしょう」
 神に一度として本心で祈ったことはなかったが、このとき初めてリュンヌは懺悔をした。
 ソレイユがサリエヌを女にできなかったのであれば、リュンヌは女だということを思い出させてしまった。
 彼女の想い人は、果たして彼女のために泣いてくれようか。
 

 

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素材提供:Heaven's Garden様

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