第四章 獅子と月と太陽 3 back next

 心臓が早鐘を打つ。
 女がひとり、倒れただけではないか。言い聞かせてみたところで自身が納得できようはずもなく。女ではない、リュンヌだ、責める己の声が幾度となく聞こえる。
 シュッダイナは後宮にある寝室に向けて急いでいた。息が止まりそうなほどの焦燥感に駆られる。一歩踏み出すのが遅く感じられた。
 後ろからついてくる薬師がただならぬ王の気配に怯え身構えた。たった一言のために斬られた男を知っている。彼は走れる年齢ではなかったが、無我夢中で王の後をついて走った。
 寝室の入り口では、まるで門番さながらの侍女がふたり扉の両脇に立っている。
「リュンヌの容態は」
 声荒く問い、すぐに返ってこない返事を待つことなく王は寝室へと入った。
 大きな音に中にいる人間全てが振り返る。そのぎょっとした視線にさらされ、王はたじろいだ。
「リュンヌは」
 それほど侍女たちに焦りは感じられなかった。王は靴音を響かせて数歩進む。彼は周囲を見回してみた。またそのようなことができる雰囲気でもあった。
「眠られています」
 奥から出てきて口を開いたのは侍女頭のマリアだった。彼女は王の前に進み出て額づく。周囲の侍女たちもマリアにならった。
 遅れて薬師が到着し、王の背後から進み出てマリアを見下ろした。
「倒れたと聞きましたが」
 貧相な身体つきの薬師である。声はしゃがれていて軽い。
 マリアは顔を上げ、事情を説明した。
 リュンヌはサリエヌの勧めたワインを飲み、倒れた。ワインの成分を調べたところ、毒物の混入はなかったが、異常にアルコール度数が高かったという。ためしに酒の強い産婆が飲んでみたが、一口飲んだだけで足がふらついた。もちろん産婆は寝込むことはなかったし、しばらくすると元気に動き回っている。
 問題は、サリエヌもそのワインを飲んだということだ。
「サリエヌ様は普段からそのような度数の高いものをお召しになられていたのか」
 薬師は疑問に思ったことをそのまま口にした。彼はドグマニード王家の王妃たちを診察してきた経緯がある。だが場違いな質問だと気付き、さっと王の後ろへと控えた。
 マリアは顔を伏せ、口をつぐむ。こたえる様子はない。
「わかった。リュンヌは無事なのだな。命に別状はない、間違いないな」
 押し殺した王の声に、マリアは顔を上げた。王の渋い顔を凝視する。予想に反した冷静なこたえだった。
「はい」
「赤子は」
 さらに王は、我が子のことについても触れた。
「体内に入ったのは一口ですし、さほどの影響はないかと思いますが」
「ふん、問題があれば貴様等の責任ぞ」
 王はマリアを見下ろし、荒い息を吐き出した。
「皆の者、下がれ。わしがよいと言うまで、誰もここに入ることは許さん。近付くこともだ」
 有無を言わせぬ強い口調で命令し、王は臣下たちの行動の行方を見届けることなくひとり寝台に近付いていった。
 一歩の歩みがこれほど鈍く重いとは、だれが想像しただろうか。気を抜けば暴れそうになる心臓がいる。
 強い日差しを避けるため、ぶ厚いカーテンが引かれていた。陽光が入らないおかげで、室内は少し肌寒い。風もなく、空気が淀んでいるようだ。
 かすかな寝息が規則正しく聞こえる。
 王は恐る恐る近付いた。
 そこには、安らかな表情で眠る王妃がいた。
 頬はわずかに赤らんでいるが、別段異常はなさそうだ。
 上掛けから覗く細い肩に手を置き、その小ささに王はひどく驚いた。触れれば皮のすぐ下に骨があることがわかる。王妃は横向きになって眠っている。仰向けは腹が圧迫されて苦しいのだそうだ。まるで母親に抱きつくような格好だ。
 王はリュンヌの髪を撫でながら、自身も寝台の端に座った。
「ひどく腹がたったでしょうね」
 うっすらと目を開けたリュンヌは、顔も上げずに呟く。
 王は身体をずらして耳を傾ける。
「サリエヌが泣いておりましたから」
 かき消えてしまいそうな覇気のない声音である。
「……」
 あの女が泣いたというのか。王は驚きに耳を傾ける。
「マリアはそれでも私に仕えなければならない。彼女は私を憎んでいるでしょう」
「そうであるならば、わしはマリアの首をかききってやろう。お前の憂いはすべて取り除いてやろう」
「……剣でものごとを通せば、剣で通される」
「異なことを。それ以外に、なにに使うというのだ」
「私は、なにもかも与えられていたのだわ」
 王には話の筋が見えなかった。けれども辛抱強く待った。
「でもやはり、私が受け取るわけにはいけませんね。すべてはアリィのためにあるものですから」
 それだけ言うと、リュンヌはまた眠ってしまった。
 王はつよくリュンヌを見つめた。わからないことが多すぎる。頭を抱えたくなるほど。
 おもむろに彼は自分の両手を見つめた。深く皺の入った大きな手である。この手で掴んだもの、掴み損ねたものは数多くあった。人を殺めた数は数え切れないほど。だが人を抱きしめた回数は数えるほどしかないのではないか。
 大きな息を吐き出す。
「アリィは、剣で斬れと言ったのだよ」
 その言葉は、彼の王道を形成するにあたって多大な影響を及ぼした。
 剣を持つが故に、斬らなければならないと。

 

 後宮から一歩足を踏み出すと、ソレイユが待ち構えていた。
 甥の顔に茜の光がかかっている。それほど多くの時間を後宮で過ごしたのかと、王は思った。
「何用だ」
「……サリエヌが無事、シュジュル国の者に迎えられたと」
「明日の予定ではなかったか」
「ええ、ですが。サリエヌ自身が早くに行きたいと。あちらはあちらで予定より早く出迎えたかったようですが」
「直接来るつもりだったのだな」
 ふんとシュッダイナは鼻を鳴らす。
「おまえこそ、そんなことを言うためにわざわざ来たのか」
「いえ。王妃に挨拶をしようと思いまして」
「お前がか?」
「はい。サリエヌが行ったことも報告しようと」
「……」
 王は甥を長い間見つめ、やがて飽きたのか床に視線を落とした。
「勝手な女だ」
「見送りはいらないと、拒否されました」
「当然だ、お前の顔など二度と見たくないだろうよ」
 王は大きく息を吐き出した。言うべきことが見つからない。荷物がひとつ減ったような安堵と、それから形のない不安が胸に広がる。
 もう一度王はソレイユを見た。不安の原因が目の前の青年だとわかると、王は苦笑するしかなかった。自分が持ち得ない青年の若さは、狂おしいほどの嫉妬と焦燥感を与えていくのだ。
 シュッダイナはちらりと目だけで背後を伺う。今、リュンヌとシュッダイナをつなぐ線の延長にソレイユがいるのではなく、ふたりの線上に己が割り込んでいるのではないか。ソレイユは王に挑むように仁王立ちで立っている。
「王妃の寝室に許可なく立ち入ることは無礼であるぞ」
「心得ておりますが、なにぶんサリエヌのことですので」
「使いを寄こせ」
「手間でしょう」
 自分がソレイユよりも上の立場であるのに、なぜ彼はこのように従わないのだ。もしかすると彼は、王がこの場に居続けることに不快に感じているのかもしれない。
立ち回りはどの親族よりも上手い甥であった。王に対し媚びることはなく、また自己の過大評価もしない青年だった。欲深くもなく、自らなにかにむけて手を伸ばしたこともない男だと見ていた。王位についてもそうで、むしろ疎んじる気配さえ見せた。おそらくソレイユに後を継がせれば、ドグマニード王家は発展もしないが衰退もしないだろう。
 だが目の前にいる甥は、今までの飄々とした態度ではなく苛烈な思念を内に秘めている。
「わしから伝えておく」
「ですが、サリエヌがやらかした王妃に対する無礼に、元夫ではありますが僕が謝罪しなければならないと思います」
「不要だ」
「彼女が僕を望んでも?」
 不意に空気を切る硬質な音が鳴った。
 目の前を銀の軌跡が見えたのは一瞬のことだった。
 描いた長剣は半円を描いた先で留まった。やがて剣が通った道すじに赤い線があらわれる。それは不意に雫となって床にてんてんと落ちた。
「過ぎるぞ」
 剣の軌道は、ソレイユの顔真ん中を横断していた。
 彼はしかし、王の剣幕に怯えることなく王を無言で見据えた。傷みを感じないわけではない。だが目の前で犬歯をむき出しにする王が、なんとも哀れだと思ったのだ。深く傷ついているのは、自分ではなく王の方だと。
 彼はつけられた熱を持つ傷口を指でなぞる。切れた肉と伴って、生暖かく粘着質な液体を感じた。
「……あなたは」
 かつんと靴音がひとつ。
 人の手跡が残らない清潔感溢れる城内は、その清廉さ故に時として寂しさを人に与える。
 冷たい風が夜の訪れを知らせていた。月はまだ出ない。
 ソレイユは肩を震わせながら笑った。しかし目の端にはうっすらと涙が滲んでいる。
「おやめくださいっ」
 けれど突然割って入った甲高い声に、ふたりはぎょっとして振り返った。リュンヌがドアに寄りかかるようにして立っている。彼女の顔が青白く見えるのは、なにも太陽が沈んだからではないはずだ。
 リュンヌはソレイユの姿を認めた。そしてその顔に無残な傷跡を見つけて絶句する。王は未だ抜刀したままだ。振り下ろす気配はないにしても、それが今しがたソレイユの顔を傷つけたのだと容易に想像ができる。
 王妃は大きな腹を抱えるようにしてゆっくりと両者の間に入ってきた。男ふたりより断然背が低く年が若いにもかかわらず、彼女の毅然とした態度はさながらふたりの男児を叱る母のようでもあり、同時に年長者にあるような威圧と自信、または威厳を兼ね備えていた。
「……あなたは、お休みになって。ソレイユは私に話があるのでしょう?」
 サリエヌが去って、あの時の約束に効力はない。だが王妃は、仲むつまじい夫婦のように王に寄り添った。見れば祖父と孫娘に見えるほどの年齢差である。しかし、王を見上げる潤んだ眼差しは、愛しい者を見上げるそれに見えなくもない。このことに王はしばし言葉を失った。
「菓子を運ばせましょう。さ、中へお入りください。傷の手当てもしなくては」
 王妃に案内され、ソレイユは王に目礼して中へ入った。王妃は彼を見送ると、視線を王に戻した。
「どういうつもりだ」
 剣を握る手に力を込め、王はうめくように言う。
「どういうつもりもありません。話を聞くだけです」
 王の顔に朱がはしる。剣を投げ捨て、王妃の細い肩に手をやって引き寄せる。手荒な行動に、王妃は少しも逆らわなかった。
 王は腕に抱く女を離さぬよう力を込める。
 しばらくしてリュンヌは顔を上げ、王と視線を合わせた。
「本来なら、アリィに捧げるべき想いのすべてを私が頂戴するのはもったいなくもありがたく、けれどやはり私が受け取るべきではないと思うのです」
 リュンヌは王の胸板をそっと押し返した。
 それは溜まりにたまったものである。王は自分を見ることはなく、自分と似た「アリィ」に想いをささやく。はじめは失笑したものだ。王にも手に入れられないものがある、と。だがこんな贅沢な暮らしができるのも、すべて「アリィ」に似た自分がいるからであり、そうでなければ決して手に入れることはできないのだ。求められているものは単なる顔だけ。我慢できようか。いっそアリィを思い出せなくなるような振る舞いをしてみようではないかと、サリエヌは考えたのかもしれない。
「似ていますか? サリエヌも私も、それほどまでに。――そんなもの、一時の慰めでしかないのに。心は別だということを、あなたは何もわかっていない。リュンヌと呼び、その実、心では常に他の女の名を呼ぶ。私になんの価値がありましょうか、外見だけの女に。あなたは哀れです。手に入れられないとわかっているにもかかわらず、あきらめきれない駄々をこねる子供です。それでいつか手に入ると夢を見る。くだらないわ」
 王は瞠目する。先ほどの熱を含んだ王妃の視線はいともたやすく冷めるものなのだ。
 彼は嘆息した。そうすることで自身の気持ちを落ち着けようとした。 
「己の存在を否定するようなことは言うな。お前に捧げる真心に、嘘偽りはない。お前はたしかにアリィによく似てはいるが、別の女だ。あの夜のことはわしの最大の失敗だった」
 やんわりと王妃の頬を撫で、王は言った。
 次に目を見開いたのはリュンヌだった。王は自ら非を認めた。
「わしの失敗はずっと昔から今に続いておる。斬るべきだったのだ、それこそが唯一アリィを手に入れる手段だったのに」
 王は過去に思いを巡らすように、目をさまよわせた。まるでそこに過去の情景が浮かぶのを待つかのように。
「今日はもうお休み。わしがかつての女とお前を重ねて見たのはたしかなことで、否定はしまいよ。だが今は――」
 たった数分で、彼は驚くほどに老けてしまった。背は丸くなり、皺が深くなったように見える。目は落ち窪んで自信を失い、溌剌とした顔の輝きも今は闇にまぎれて幽鬼のよう。
 言葉を区切った先を、王は続けた。
「だが、斬らないでよかったと思っている。なぜならその結果がお前なのだから」
 リュンヌの頬に軽く接吻をし、王は背を向け歩き出した。背後を振り返る気配は微塵にも感じられない。残心すら置いていかぬ潔さに、リュンヌは熱くなった頬に手をあてた。
 

 

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