第四章 獅子と月と太陽 2 back next

 現四代目ドグマニード王には、三十五人の妻がいた。ただひとりを除き、過去形で表すのが正しい。
 シュッダイナ王のように十名以上の妻を娶る王は珍しくはない。代々の王たちはそれぞれ最低でも五人の妻がいたと記録されている。だがこれほどまでに妻を抱えていたにもかかわらず、シュッダイナ王には庶子を含めても、リュンヌの生んだ子以外はひとりも確認されていない。彼女は子を成した唯一の女性として寵愛を受けた。
 シュッダイナ王が不能か不能でないかは、リュンヌを身ごもらせたことにより疑惑は解消されたものの、好色か問うたなら否だと誰しもこたえることができる。
 王家の婚姻は、恋愛という感情のやり取りをまったくもって排除した愚劣なものである故に、シュッダイナ王は妻となる女に一種の諦めを抱いたのではないだろうか。第四代目のシュッダイナ王はその心情が顕著だった。彼は次々に妻を娶ったが、そのうちだれにも心を開かず夜も通わなかった。彼の理想を唯一満たしたのが、おそらくリュンヌひとりなのだろう。彼女は飢えたヒナのようにシュッダイナを求めたわけではない。むしろ親の敵のように恐れ怯え、震えた。彼女は今までの妻のように政治的なつながりが一切なかった。
 ドグマニード国、またはその近隣諸国において結婚という言葉を訳せば、すなわち家と家の結びつきではなく、資産と資産の結合となる。
 国土の明確な線引きはない。たとえば婚姻する女が持参した土地と人民は、嫁ぎ先の国のものとなる。当然、国の領地をあらわす地図は虫食いで国境線は成り立たない。ドグマニード王家の財産である土地と土地の間には、他国の財産の土地などが挟まっている場合があるからだ。
 女は子宮であり、付属品であり、資産の目安である。贈る財産は結納品という名目であり、頻繁に行われるものではない。だがシュッダイナ王の妻の数を考えればこの取引が多く行われたことは間違いない。
 現在、シュッダイナの妻であった十余名の女が、甥のソレイユの元へと嫁いでいる。結納品のほとんどが土地と人民であったが、これはソレイユが次の王だということを暗にしめしてもいた。
 サリエヌも土地と人民を結納品として持参し、結婚したひとりである。シュッダイナやソレイユと結婚はしたものの、彼女の純潔は未だ失われてはいなかった。女としての喜びも満足に知らず、老いていく自分を見つめ続けるしかない彼女は、泣くことを忘れた。もはや四十に手が届く歳になる。
 女を捨てなければ生きていけない気がした。
 自分を物扱いし、物になりきることで平静を保とうとしたのだ。それは実際途中まではうまくいっていた。
 リュンヌ・ドグマニード。
 名を思い出すだけで粘つく炎が湧き上がる。
 王妃という確たる地位を、男の愛も、女としての喜びも、財産も、サリエヌが手にすることはできないすべてを手に入れながら、なにもないのだと主張するこども。
 憎くて憎くてたまらず、引き裂き炎で焼き尽くしてもまだ足りぬ。彼女の存在を知らぬまま過ごせたらどんなに良かっただろう。
 欲しい欲しいと泣いたところで、どんな甘い夢もだれも与えてくれぬ。ただ奪われていくものだけが数えることができる唯一であるのに。
 だから、無知なる王妃に悪意ある遊びを提供したのは、なにも退屈だったからではない。狂ってしまえばよかった。
「あんたの顔が嫌いよ」
 いつか夕食を共にしたとき、サリエヌはそう吐き捨てたのだ。同じ顔であるはずなのに、片方は寵愛を受け、片方は財産の目安でしかない。わかってはいるのだ、王家の娘と、孤児の娘。唯一にして最大の違い。
 言い放ったことで、すっとなにかが軽くなった。同時に汚い言葉は次々と溢れていく。
 にもかかわらず、王妃はその言葉を受け入れ吟味し、肯定したのだ。
 愚直な王妃にサリエヌは言葉を失った。
 リュンヌは心底自分が王妃であるということを恥じていて、女としてもなにもかもに自信がなかった。サリエヌを美しいと思い、故にそのようになりたいと本気で思った王妃だった。
 意志を認められない人形であるはずのサリエヌを。
 だがリュンヌも人形であった。
 彼女は王の愛する女によく似た女だったから妻になったに過ぎない。初夜に他の女の名を呼ぶなど、これ以上の屈辱があるだろうか。
「ほっとしたでしょう?」
 求められているのは顔だけだという王妃に、サリエヌは薄ら笑いを浮かべたのかもしれない。本質を求められないという点では、お互い共通したものがあった。自分だけではないと安堵したのも事実で、リュンヌに指摘されたときは不愉快に顔を歪めるどころか、手を取り合って慰めあいたいと思ったほどだ。また、自分が好き勝手に振舞っても王に何も言われなかったのは、この顔が愛する女に似ていたからだったのだ。
 喉の奥がどれほどひりついただろう。
 酒を飲んだところで全てが忘れられるとは到底思えぬ。
 前を見据えて進もうとも考えられない。それには歳をとりすぎていた。
「顔をあげなされ」
 しゃがれた声に回想が中断する。
 そろそろと顔を上げると、見慣れぬ老人が顔を覗き込んでいた。丸い輪郭に、額に深い皺が入り、目は細く穏やかに垂れ下がっている。目を覆い隠す白く長い眉毛と首元まで伸びたひげがサリエヌの手の甲をくすぐった。
 老人はそっとサリエヌの両手をとって持ち上げた。女の手よりも小さく冷たい手だった。
 死に逝く者の手だ、サリエヌはそう思った。

――意味はない。サリエヌという女になにひとつ意味はないのだ。

 この男が三度目の結婚相手か。ぼんやりと思っただけで、あとはなにも考えることができなかった。
 やはり泣けない。どんなに歯を食いしばろうとも、鼻がつんとしようとも、どこが悲しいのかさえもわからないのだ。
 老人は白い装束を着ていた。彼は背筋を伸ばしても、椅子に腰掛けているサリエヌの頭ほどの背丈しかなかった。
「優しくしてやるぞ」
 柔らかな微笑みは、不意に下卑た笑みにとってかわる。サリエヌは一瞬にして肌が粟立った。初めて目の前の老人が男だと、――男とはどういうものかを認識した。

 前日の挙式は簡略的なもので、立会人は王の護衛だけで執り行われた。サリエヌは流れ作業の中に身を任せるだけでよかった。
 つけられた侍女はひとり。
 後宮の一角に、サリエヌの部屋は与えられた。初夜ということもあり、湯浴みをし、髪を丁寧に梳いてもらって香油を塗りたくられた。
 彼女は終始おとなしく従っている。一切をあきらめた表情だった。
 置かれた調度品は、細工がドグマニード家のものとはやはり違う。広さのわりには大きすぎる寝台が中央に置かれ、その側に安っぽい作りの椅子がひとつあるだけだ。サリエヌはその椅子に腰掛け、夫を待っていた。
 シュジュル国の王は年老いていた。シュッダイナ王とさほど歳が変わらぬが、シュジュル王は歳相応に見える。年月に逆らうことなく生きてきた証拠だ。
 無垢なる白を堂々と纏ったシュジュル王は、サリエヌの顔を見るなり目を見開いた。
「ほう、これはこれは。ドグマニード王はいい女を手元に置いていたものじゃ」
 彼は腰に手をあて、ゆっくりとサリエヌのまわりを歩いた。その間、上から下まで嘗め回すように観察したのは言うまでもない。
 長く伸びたひげをなでながら、シュジュル王はサリエヌの前に立った。それから鼻で笑う。だがそれにサリエヌはまったく反応を返さなかった。シュジュル王は眉をひそめたものの、再びにやついた表情になる。
 王はサリエヌの手を引き立ち上がらせ、ゆっくりと寝台にいざなった。
「女々しい男よの」
 シュジュル王はサリエヌを寝台に横たわらせながらそう吐き捨てる。
「未だ忘れられぬか」
 サリエヌの身体は動きを忘れてしまったかのように、硬直していた。シュジュルはまるで人形のような妻に性欲がそがれそうになったが、興味は逆に沸いてきた。天井ばかり見つめる妻の衣服を、丁寧にはいでいく。
 淡い光の中、滑らかで陶器のように白い女の裸体が浮かび上がった。
 身体の線は丸みを帯び、手を沿わせればしっとりと吸い付くようである。シュジュルはしばらくその肌を楽しんでいたが、やがて彼女をまたぐようにのしかかった。
「アリシアン・リーという女を知っているかな」
 唐突な質問を浴びせ、サリエヌの反応を伺った。しかし新しい妻は相変わらず聞こえないのか、天井を見つめるばかりだ。
 今度は王妃の顔に息がかかるぐらい近付く。
「シュッダイナはアリィと呼んでいたがね。彼女と血縁か?」
「!」
 目を見開きこちらを睨みつける妻に、シュジュルは女をいたぶるときの高揚感を感じた。
「我妻であり、シュッダイナとも情を通じた淫婦。おまえもドグマニード王家の男ふたりに嫁いだ淫婦だったな。たしかにたしかに、お前は素晴らしく美しい。だがあのふたりにとってお前にはなんの価値があったろう? 身代わりだよ、ただの。我妻、アリィに恋焦がれ、結局捨てられた愚か者。捨てられたが故に忘れられぬ。こうしてよく似たお前を手元に置いておくなど。が、手放された理由はなにかね? 同じ顔をしているだけに、お前がシュッダイナを捨てたのかな?」

 

 

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素材提供:Heaven's Garden様

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