第四章 獅子と月と太陽 1 back next

 それを献上する男はだれでもいいわけではない。けれども宝石自身が行き先を決めることはできない。尤もだ。
 浅い眠りから目を覚まして、リュンヌはしばらくそのままで動かなかった。奥の部屋では侍女たちが忙しく立ち回っている。まだ朝日は昇りきっていないというのに、パンの香ばしい香りが漂ってきていた。
 今ではリュンヌはひとりで起き上がることもままならない。必ず横向きになり、両手で寝床を押すようにして上体を持ち上げる。起きてしまえばさほどの苦労はないが、血が薄まったためかめまいをよく感じるようになった。鉄分を補給しろと、産婆が差し出す苦味のある漢方薬を服用したところで、改善しているとは実感しがたい。
 リュンヌは頭に手をやり、しばらくぼんやりと虚空を眺めていた。
 久しぶりに母の夢を見た。彼女はリュンヌに会いに来るたび同じ話を何度もした。女は宝石なのだから、と。そしてリュンヌは男に献上される宝石になった。
 彼女は子の現状を予想していたのだろうか。
 母の名すらリュンヌは思い出せない。
 自分がいつから教会に預けられていたのかも。そもそも彼女は母だったのだろうか。 
 深く陰影のついた顔は詳細を思い描けない。ただいつも儚げに笑い、女であるが故の憂いを備えていて、しかし決して人生を悲観したものではなかった。
「リュンヌ様」
 仕事がひと段落したのだろうか。侍女頭のマリアが手を拭きながらこちらにやってくる。その険しい表情に、リュンヌは少しばかり身体をかたくした。だが身体を引こうとはしない、それだけは強くなったということか。
 マリアは寝台の隣にある腰掛に座り、しばらく口を開くことをためらっているようだった。ややあってマリアは大きくため息を吐き出す。それが決意だったかのように顔をあげ、リュンヌと視線を交えた。
「最近、サリエヌ様と親しいようですね。リュンヌ様に話し相手ができてよかったと思っています」
 切り出しは差し障りのない内容だった。
 マリアの表情は穏やかではなかったにもかかわらず、リュンヌは腹を柔らかく撫でながら言葉を受け止めていた。
「あなたはご自分の立場をどのように考えておられますか。王妃というものは飾りではないのですよ」
「マリア?」
 いつもよりも厳しい語気に、リュンヌは首を傾げる。
「もう少し詳細に苦言を申しあげるならば、これ以上サリエヌ様やソレイユ様とお近づきにならないように願います。サリエヌ様をただの友人だとお考えですか? ソレイユ様を単に王の甥だとお考えですか? いいえ、違います。サリエヌ様はソレイユ様の妻であり、ソレイユ様は、第一王位継承権を持つお方です。ですが、あなたはその身にお子を宿しておられる。そのお子も王位継承権を持っていらっしゃるのですよ」
 年老いた女のしゃべり方だ、リュンヌは虚ろな目でマリアの肩越しにある窓の外を眺めた。この侍女頭はなにもわかっていない、わからないのだ。そのはずだ。
「知っています」
「であれば、よくよく考えてくださいませ。あなたは誰ですか」
「王妃よ」
 口にすることに戸惑いはもうなかった。
「王の、国の怒りに触れるおつもりですか」
「いいえ。王をお慕いしているわ」
 これは事実だとは思えなかった。
 気のない返答に、マリアは絶句した。
「では、今すぐソレイユ様から距離をお取りくださいませ」
「それはできないわ」
 一瞬にしてマリアが紅潮する。
 リュンヌは横目でマリアを見つめた。
「王以外の男になどっ」
 マリアは声を詰まらせた。
 ああ、リュンヌは鬱々とした気持ちをため息と共に吐き出した。
 ソレイユがサリエヌの夫だということは知っている。サリエヌがそうだと教えてくれたのだ。その時の衝撃をまた味わわせたいのだろうか。
「ソレイユには現在十余名の妻がいて、サリエヌはその中のひとりよ。全員」
 言葉を切ったのは、マリアを見据えるため。
――知っているわ、そんなこと。
 悪態をつきそうになるのを堪えなければならなかった。
「シュッダイナ王の元妻よ」
 ひゅっとマリアの喉奥が鳴ったような気がした。
 今度こそリュンヌはマリアを言葉で打ち据えたのだ。

 言ってからリュンヌはその内容のひどさに唇を噛み締めた。言わせたマリアを睨む気にもなれぬ。
 ちらりと目だけでマリアを見れば、彼女はうつむいてわなないている。
 もし自分の気持ちを正直に打ち明けたなら、侍女頭は卒倒するだろうか。だが事実なのだ。ショックを受けたいのは、むしろ自分の方だ。いろいろなことがいっぺんに身に降りかかったリュンヌとしては、笑い飛ばす程度に思える。
「マリアも知っていたことでしょう?」
 澄ました声で言えば、マリアは顔を上げ、視線を逸らした。失笑しそうになる。
「そんなに私は哀れじゃないわ」
 ふとマリアの背後をみれば、朝食を銀の盆に乗せて立っているサリエヌがいた。彼女はふたりのやりとりを鼻で笑いながら見物していたに違いない。
 寝汚いなどと噂されているサリエヌだが、髪もほつれがひどく顔もろくに洗ってはいないだろう姿がそこにあった。
「今日はテーブルに着かないのかしら」
「もう起きるところよ」
 寝巻きのまま客と対面するほど無礼なことはなかったが、サリエヌも寝巻きと変わらぬ姿である。いつもにもましていい加減だった。
「着替えてよろしいでしょうか」
「いやよ、冷めちゃうわ」
 だがリュンヌはマリアを押しのけ、寝台から降りた。衣裳係の腕から衣服を剥ぎ取ると、乱暴に袖を通し始めた。あわててマリアが駆け寄ってくる。作法に則らない王妃の行動は、また問題なのだ。サリエヌは良くて自分は駄目なのだろうか。苛立ちが募る。
「また作り直させればいいわ」
「……そうね」
 自分の口から吐き出した言葉であるにもかかわらず、リュンヌは気分が悪いと感じてしまった。そんな横柄な態度をいつおぼえてしまったのだろう。口に出すほど慣れてしまったのだろうか。
――吐きそうだ。

 

 目の前で鶏肉にむしゃぶりつくサリエヌを、リュンヌは頬杖をついてぼんやりと見つめていた。彼女との食事も今日が最後かもしれない。
「食べないのかしら」
「ええ」
「身体に悪いわ」
「そうね」
 リュンヌに食欲はまったくといっていいほどなかった。
 マリアたちは、忙しくサリエヌの食べこぼしを拭くので忙しく立ち回っている。
 窓から涼やかな光が差し込んでくる。これが日中になると汗をかくほどの熱気を持つのだが。
「今日の私、なにするかわからないわよ」
 なんの前触れもなくサリエヌは食事の手を止めた。
 フォークから肉汁が光を受けながら皿に落ちる。
 彼女は一切笑うことなく、挑むようにリュンヌを見下ろした。三十半ばだというのに、彼女はリュンヌと歳も身分もさほど変わらぬというように接している。むしろリュンヌを見下してさえいたかもしれない。
「明日、ここを発つわ」
「そう」
 引き止めることはできない。自分にはなんの力もないのだ。
「お元気で」
 サリエヌはソレイユと離縁し、また別の君主に嫁ぐことになる。
 リュンヌがソレイユに想いを寄せているから身を引くということではなく、国と国の利害のためなのだと知らされたとき、リュンヌはなんとも言い難い悔しさと怒りを覚えたものだ。
「言ったでしょう? しかたがないことなのよ、この国の女は」
 そう断言してしまえるほど、サリエヌは覚悟を決めていた。彼女は決して涙を見せなかった。
 リュンヌは前日に彼女が言った台詞を思い出そうとして失敗した。明らかに理不尽であり、不愉快であり胸をかきむしる内容であったのは間違いない。だがどうしても思い出せないのだ。
 そうこうするうちにサリエヌは食事を終えてしまっていた。リュンヌの皿に盛られた料理はことごとく冷めている。
 サリエヌは席を立った。ナフキンで口を拭うこともせず、油で光る唇で孤を描く。
「実はワインを持ってきたの」
 足元に置いていたのだろう。コルクは半分突き出して中身も減っていた。明らかにサリエヌの飲み残しである。
 透明な瓶を振ると、琥珀の液体が波を作った。彼女はそれをリュンヌの鼻先に突きつける。
「一体どういうつもりですかっ」
 マリアが横でヒステリックな声をあげる。
「いただきましょう」
 しかしリュンヌは手で制してグラスを差し出した。飲むことで餞になるのなら、いくらでも飲もう。
 サリエヌは背を向けていた。足早に出口に向かっている。
 対してリュンヌは座ったまま見送った。立ち上がって肩を並べ、見送ったところで彼女が笑うはずもない。なによりあれほど頑なに拒絶の意を表している背中があるだろうか。きっと戻れやしないのだ、誰も。
 グラスを傾け、琥珀の液体を揺らしてみる。
 悲しいことに、彼女と過ごした苦味のある楽しい時間がひとかけらも思い出せなかった。
「飲んではいけません」
 マリアの制止も虚しく、リュンヌにためらいはなかった。
 ごくり。
 王妃の喉が酒を飲み込んだ。
 グラスに半分以上残った液体を、次には一口で飲み込む。空のグラスを、目線の高さに持ってきて目礼をした。サリエヌに対する感謝の意を表したかった。
「リュンヌ様っ」
 怒声ではなく、予想に反して響いてきたのはマリアの悲鳴だった。
 ぐらりと身体が傾いだ。
 なにか激しい物音がする。皿が割れたかもしれない。
 一気に酒を煽ったせいで、なにかしらの粗相をしたのだろうか。頭にマリアの声が響く。視界がぼやけた。
 マリアが泣き出しそうな顔でこちらをのぞきこんでいる。自分にまわされた細い腕に掴まろうとして、リュンヌは失敗した。
「どうしたの?」
 マリアの必死さに、リュンヌはおかしくなってそう尋ねたつもりだった。だがこともあろうに王妃の質問を、マリアは無視したのだ。だが責める気力もわかなかった。
 力が抜けていく。胃のあたりからなにか酸っぱいものが這い上がってきていた。
「ああ、そうか」
 混濁する意識の中で、リュンヌはようやくサリエヌの台詞を思い出した。
 あまりもの挑発的な内容だった。
――捨てたのよ、女を。
 そう言わざるを得なかった彼女の状況を哀れむと同時に、また自分もそうなるかもしれないという危機感。あの不愉快で忌まわしい心境を、だれが慰めることができよう。
 泣いても意味がないのだ。
 

 

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