|
――心は泣いているのかも知れぬ。
桶に汲まれた冷たい水に両手を浸し、リュンヌは己が手をじっと見つめていた。
なんど口元を拭っても、口の中を水でゆすいでも粘ついた好意の跡は消えてくれない。
頬に涙は流れなかった。泣けないのだ。
王は政務へ戻っていった。背後に控えるのは、王妃の無表情に戸惑う侍女たちばかり。なにがあったかなど、立ち入ろうとはしない。
大丈夫。
もう一度水を口に含み、汚れを受け止める桶に吐き出す。
昼には、この痕跡は消えている。なぜなら――ソレイユ。あの優しげな眼差しが待っているからだ。
サリエヌは約束した。シュッダイナ王に優しくすれば、王妃の願いを叶えると。なんでも叶えると、誓ってくれたのだ。そしてサリエヌは、ソレイユを連れてくる。
うれしいはずなのに、そこは喜びを溢れさせるところなのに、リュンヌの心は穏やかではなかった。夜が明ける前の静けさの中に、これから起こるであろうことに対する不安と焦りが漠然とながら存在していた。
「マリア」
久方ぶりにその名を口にする気がした。
「どうされました」
いつもよりやや硬質な響きを持つ声がこたえる。
自分とサリエヌの計画が知られてしまうような気がして、リュンヌは振り返れなかった。
近付いてくる気配に、思わず身体がびくついた。
「今日の昼食は外でどうかしら」
椅子にかけてある布で手を丁寧に拭きながら、リュンヌはおそるおそる切り出した。
外で食事をするなど、初めてのことである。そもそも王妃の方からなにかをしたいという意思表示は珍しい。マリアは返事をするまでしばし間があった。
「サリエヌと……」
そこでリュンヌはようやく振り返る。しかしマリアの目をまともに見ることはできずにいた。
「サリエヌ様と?」
まるで幼子の話しを聞くときのように、マリアは辛抱強く問いかけ返答を待った。
サリエヌは祝賀会のときより、城に居続けている。以前は城に住んでいたというのだから、勝手知ったるである。
リュンヌはあの夜以降、サリエヌと数回会っていた。挨拶程度の短い時間のときもあるし、食事を共にして会話を楽しむなどリュンヌにとってよき話し相手になっている。それはマリアも承知のはずであるから、なにをためらうことがあろうか。
「わかりました。支度をしますね」
「お願い、ね」
嘘をついたわけではない、にも関わらずリュンヌは心臓を押さえ込むように手の平を胸に押し付けた。大丈夫、自分に言い聞かせなければならないほど。
全ての支度を終え、王妃を迎えに来たのはマリアを従えたサリエヌだった。彼女は相変わらず自分とよく似た容姿をして薄ら笑いを浮かべている。
「あ」
リュンヌはサリエヌの全身を見て、声を詰まらせた。髪型やドレス、果ては化粧の仕方までリュンヌとそっくりに仕上げてきたのだ。目元の皺も、おしろいで目立たなくなっている。
なんの悪戯であろうか。リュンヌは思わず眉をひそめた。
「ごきげんよう、王妃様」
サリエヌは膝を少し折って挨拶をした。立ち振る舞いはさすがに優雅で、リュンヌと比べるべくもない。
リュンヌは気後れして挨拶を返すことすら念頭になかった。
服も髪も同じにしてしまえば、これほどまでに似るものなのだろうか。血がつながっているのかもしれない。だが自分がサリエヌのように高貴な血筋の人間だとは到底考えられなかった。
「気分が悪いわね、これほど似ていると」
口に出したのはサリエヌで、リュンヌはその台詞にわずかながらめまいを覚えた。同様のことを思っていたとは。しかし、それが不愉快ではあるものの、なぜかという疑問はサリエヌにはないらしい。むしろ似ていて当然だと、この事実を受け入れている口調である。
「お願いだからおかしなことは言わないでね、大体は想像できるわ。遠くても近くても、一切の血のつながりはないから安心して。運命の悪戯っていうのは合っているかしら。ねぇ、マリア」
鈴を転がすようにころころと響く声は、マリアに向けられた。しかし返答はない。
「まあ、でも偶然ではなくてよ」
声を低め、親の敵でも見るかのようなサリエヌの視線が一瞬リュンヌを射抜いた。それは本当にわずかな間のことで、リュンヌはその理由を考え答えを導き出そうとしたときには、背を向けられていた。
マリアの方に確認をしてみても、侍女頭はサリエヌの行動に気付いた様子がない。リュンヌは腑に落ちぬままそれでもサリエヌの後ろに続くようにして庭に向かったのだ。
「手に入れたいのでしょう?」
サリエヌの後をついていきながら、マリアはあの夜の約束を思い出していた。
冷ややかな視線を向けらられ、リュンヌは怯えたように頷いたのを憶えている。
望みはなにかと問われたとき、ためらいがちに口にした願いはただソレイユと話がしたいということだけだった。だがそれだけではサリエヌは満足しなかった。鼻でリュンヌを笑ったのだ。
「違うでしょう」
心のうちを見透かされたようなサリエヌの不敵な笑いに、心底ぞっとした。
リュンヌの控えめな発言を大胆にさせたのはサリエヌである。
「手に入れたいのでしょう」
リュンヌはこのときほどサリエヌを尊敬の眼差しで見つめたことはなかった。
「欲しいのでしょう」
サリエヌはリュンヌの代弁者だ。
やはり彼女は自分を狂わせる魔女だ。
素直に頷かせる魔力があった。
「――欲しい」
確かに自分は自ら促されるままに言ったのだ。
庭にある木の中でも樹齢は百年を越える大木の下に、胡坐をかき座って待っているのはソレイユであった。リュンヌは彼の姿を見たとき、人違いではないかと疑ったものだ。王族であるにもかかわらず、城の中で会ったときよりは胸元をはだけずいぶん着崩している。共の者もつけず、得物も持たず座って待っているなど、どんなに無防備なのだろう。
また彼が王妃の一行に気がつき手を振る仕草は、親しい友人へ向けてのそれで、かしこまっている風は感じられなかった。
リュンヌはサリエヌの後ろを歩いて正解だと思った。だれよりも一番に自分に気付いて欲しい、誰よりも早く一番に彼に会いたい。そんな欲はあるのに実際に彼を目の前にしてみれば、頬は熱くなり心臓が早鐘を打っている。きっと頬は赤くなり、彼と対峙しても思う気持ちの半分もいえないのではないかと思うのだ。
嫌悪する行為が朝方あったことなど、今ではすっかり忘れてしまっている。サリエヌは約束どおりソレイユとの仲介役になってくれたのだ。
リュンヌはサリエヌの背に感謝の眼差しを送った。
昼食をとるには少し遅い時間である。
風に乗って流れる雲は、少しばかり灰の色が混じっており、位置も低いところにあった。夕方には雨が降るであろうか、日々の天気に生活を左右されていたリュンヌは空を見上げ、顔を曇らせた。芝を撫でる風は少しばかり湿気を含んでいる。
サリエヌが儀礼的な挨拶をソレイユと交わして座った。それを合図に、背後を歩いていた侍女たちが昼食の準備に取りかかる。
井草で織った敷物を拡げ、バスケットに入ったサンドイッチや肉料理を並べはじめた。ぶどう酒もぬるくはなっていたが、デカンターからグラスへと次々と注がれていき、リュンヌには紅茶が差し出された。
城の中で食事をするときより料理の数は少なかったが、それでもかつて庶民だったリュンヌからすればこれでも食べきれないほどの贅沢な食事である。
「王様も政務が終わりましたらお立ち寄りくださるということです」
「え」
皿にとりわけられたサンドイッチを一口かじったときである。マリアが背後から当然のことのように言ったのだ。
「ど、どうして」
「リュンヌ様が本日昼食を外で食べられるということで、報告しましたらとても残念がられておりました。なので、お食事にお招きしました。なにか?」
「い、いえ」
妻と食事をすることに、なんの疑問もないだろう。せっかくサリエヌの計らいでソレイユと話すことができるというのに、王が来たならば王の隣に座り彼を優先しなければならないではないか。
マリアの忠誠心は、望むものと多少違うことにリュンヌは歯噛みした。
食事が半ばに差しかかり、マリアたち侍女は王族を残してその場を立ち上がった。次の来客に備えて準備をするらしい。彼女達は、リュンヌたちに気を遣ったのか少し離れた場所で、作業に取りかかりはじめた。
リュンヌはほっと胸を撫で下ろす。彼女たちがいては、ソレイユと会話を楽しむことができないように思えた。しかし、
「そういえば、お子様の調子はいかが? 私、子供を生んだことがないからよくわからないの」
サリエヌは愉快そうに声をかけてきたのだ。リュンヌはさっと汗が引くような思いだった。なにもソレイユの前で話すことであるまい。否応なしに自分の立場を思い知らされる。
「叔父も楽しみにしていましたよ」
ソレイユの追い討ちは、とどめだった。
別段不審な会話ではない。けれど不満は拡大する。なぜ今その話に移るのか。
私は、と続けてリュンヌは腹を見た。へそのあたりが丸みを帯び始めていた。腹は硬く、明らかに脂肪のかたさではない。ここが徐々に大きくなっていくのかと思うと、想像できずに不安になる。
腹の中の子は、王の子。
いくらソレイユに焦がれようとも、想いを伝えようともその事実は変わらぬ。一体自分はなにを愚かなことをしようとしているのか。
ふと現実に返ったとき、隣に座っているソレイユの存在が遠く感じられた。代わりに早朝の散歩をともにした王を思い出す。清々しい空気の理由を得意そうに話す王は、とても邪険に扱うことができない少年のような表情をしていた。
「ええ、そうですね」
ゆっくりと微笑み頷くことができた。次に顔を上げると、目の前にソレイユの丹精な顔があった。えっと、リュンヌは驚き身体をよじろうとしたが、素早くソレイユはリュンヌの腰を支える。相手がソレイユということもあり、逃れることも動くこともできなかった。
「あなたのお子だ。きっとかわいらしい目をしているのだろうね」
あなたのお子――それは私の子。
その言葉は素直に胸に落ちてきた。今まで実感できず、嘘だと思いたかった事実はこのとき初めて自ら受け入れることができたのだ。
先ほどとは違った気持ちで、再び腹に手をあてる。動く気配がなかろうとも、そこに自分の血を分けた子が確かに存在しているのだ。
ふたりが見つめあっていると、サリエヌがスカートの裾を持ち上げて立ち上がった。
「お酒が切れたの。ほんっと気がきかないわね」
少々の酒では酔えない、だが酔えば手に負えない。サリエヌと侍女の戦いを垣間見た気がした。サリエヌは王妃に断りもなくふたりを残して侍女がいるところへ歩いていく。
彼女の背中を苦笑しながら見送ったソレイユは、眉を下げて困ったような表情を見せた。
「よくあなたは彼女の相手ができるね」
彼はくすくす笑いながらチーズを口にほお張る。その食べ方も作法に則ったわけではなく、気さくな感じであった。
「ソレイユ」
笑みが途切れ、リュンヌは決意を込めてソレイユの名を口にした。
サリエヌがソレイユとのお膳立てをすると言った後、彼女は自分の想いを必ず相手に告げなければならないと言ったのだ。
今、幸いにもふたりきりである。
リュンヌはソレイユを上目遣いに見上げた。頬が熱くなっている。
ふたりの関係が決して交わるものでなくても、あの時抱いた願いは今もあきらめてはいない。
「なんですか」
「私」
胸が詰まるような気がした。ためらいがまったくないとは言えない。多少なりとも自分には恥というものがあるのだと確認すると、リュンヌは小さく苦笑した。
「あなたのことが好きなの」
――後宮では一番の権力者。あなたに逆らえる人間はいないの。
単純明快な告白に、ソレイユは目を見張った。どう返答をすれいいのか彼は考えたのだろうか。
リュンヌは唾を飲み込んだ。決してソレイユの返答がほしいわけではない。また彼を困らせていることも承知である。だからこれ以上は決して口には出さない。
だが、サリエヌの言葉を信じるとするならば、彼は返事をどうするのだろう。
「これは……光栄です」
その先を望んではいなかった。けれど期待はした。故に、サリエヌの言葉が頭からはなれないのである。

back 目次 next
 ←ランキングに参加中
素材提供:Heaven's Garden様
|