第三章 新たなる客 3 back next

 

 

 寝たきり生活の宣告も解禁された二月初旬。王は早速リュンヌを外へと連れ出した。リュンヌは手を引かれるまま王の後に続く。けれどリュンヌはこの偽りの従順さを、顔を伏せることで隠すことにした。
 王が早朝の散歩に連れ出すようになったのは最近のこと。まだ陽も昇りきらぬうちに寝室にやってきてリュンヌを起こし、身支度もそこそこに半ば強引に手を引っ張っていくのだ。
 リュンヌはこの誘いを断ることができずにいた。
 また乱暴される、そのような怯えは常に抱いている。けれどそれは王の命令に従わなかったときであり、従順でありさえすれば王はご機嫌なのだということを悟れば問題はいたって簡単だった。
 なにより後宮では閉塞感が日増しに強くなる。だが外へ一旦出てみると、その清々しい空気に嫌なことなど忘れることができた。たとえ短時間であっても。
 リュンヌは常に追うの一歩後ろを歩くようにしていた。たとえ話しかけられ顔を上げたとしても、視線が微妙にずれていることを気がつきにくいと考えたためだ。
だがそんな小細工は老齢のシュッダイナに通じるはずがない。王が話しかけてくるときは、必ず視線の高さを合わせて、リュンヌが理解するまで辛抱強く繰り返した。
 王妃の返答は決まっている。是、だ。
 王はさらにリュンヌが腕を絡めてくることを要求した。そう、要求したのだ。
 そろそろと手を伸ばし、リュンヌは請われるままに王の均整の取れた腕に触れる。途端、それはわずかに震えた。疑問に思って顔を上げると、王は少し驚いたように目を見開き、次に少し笑って咳払いをした。顔が赤くなっている。少年のような反応を返す王に、リュンヌはくすりと笑みをこぼした。
 しばらく歩いていくと、太陽もようやく地平線から離れ始めた。朝靄は次第に薄くなり、黄金色の空を待ちかねた鳥が鳴き始める。
 風はなくとも新緑の匂いはあたり一面に充満していた。
 全景を見るには半日はかかると言われる広い庭園は、起伏に乏しく、一面が穏やかな緑に染められている。ところどころ幹の細い木が植えられ、側に腰掛が設置されていた。庭師は点在する少数の木と、衣裳部屋と寝室をつなぐ渡り廊下にある花壇の手入れが主な仕事である。以前障害物の少ない庭では、王族のこどもたちの遊び場となってにぎわっていたようだが、今となっては薄ら寂しい平原と化していることに、リュンヌは心が痛む思いだった。教会にいる子供達を連れてくることができたら、どんなに喜ぶだろう。また、花の数を増やせないだろうか。そうすれば季節ごとに楽しみが増えるではないか。その仕事を任せてくれたら。
 そこでふと自分が王の妃になった経緯を思い出してみた。
 何のことはない、結婚を否と駄々をこねるリュンヌに、王は教会側に多額の結納金を納めたのだ。そこにもリュンヌの意思は介在しなかった。頭上で交わされる流れに流されただけである。
 物憂げな表情のリュンヌに、王は小道の脇に咲いていた小花を摘み取って差し出した。無言で差し出されるそれは、以前窓際に楚々と飾られ王が花言葉を聞いた花であった。リュンヌもまた無言で受け取り、その花を見つめる。
 思考は巡る。
「ホワイトスター、花言葉は信じる心です」
 サリエヌに教えられたとおりの解答である。
「二月に咲くとはずいぶん早いですね」
 実によくサリエヌはシュッダイナ王の嗜好をことごとく叩き込んでくれた。
「ほう、だれに教わったかな」
 目を細めるシュッダイナ王に、リュンヌは視線を逸らした。
「サリエヌに聞いたのです。ところで、こんな朝早くから、散歩など始めようと思ったのですか」
 話を逸らすため、遠慮がちに問いかけると王はふと立ち止まった。リュンヌも止まって王を見つめる。彼女にとってさほど重要なこたえではなかった。欲しいとも思わない。だが王は、よほど重要なのか、大きく息を吸い込んだ。そして空を見上げ、鼻から息を吐き出した。
「太陽が昇りきっってからではこの空気は吸えんな」
「空気?」
「こんなにも気持ちのよい時間を知らないとは、損だからな。お前に教えてやりたかった」
 確かに、昼間の空気と早朝の空気は歴然とした差がある。その差がなんなのかは説明できないが、確かに知らないと損をするほど気持ちがよかった。
「朝がとても清々しいのはなぜだと思う。それはな、朝日が昇る直後というものは、呼吸をする上で必要な成分が一気に増える時間だからなのだよ」
 太陽を背に、無邪気に笑う王を見たのは初めてだった。
 リュンヌは思わず目を細めた。
 まぶしかったのは、薄蒼の中に輝く太陽のせいではなく、王の笑顔そのものがまぶしかったからだ。
 もし、サリエヌが提示した条件を飲んでいなければ今頃リュンヌは息苦しい後宮の中で嘆いているだけに過ぎなかっただろう。あの意地の悪い取引は、今になってはそれでよかったのかもしれない。リュンヌはあの夜の情景を頭に描いた。

 

「あんたって、ほんっと隅から隅までつまんない子ね」
 リュンヌが初めてサリエヌと食事を共にしたときである。窓の外はすっかり暗くなり、蝋燭の光だけが室内を照らしている。暖炉に火をくべているとはいえ、そこから離れている寝台は少しばかり肌寒い。スープも早々に冷えてしまった。
 フォークに鶏肉をつき立て、サリエヌは開口一番そう言い放った。
 サリエヌ・リード・ドグマニードの口は実によく動いた。食べ物を咀嚼するため、おしゃべりをするため、果てはリュンヌにキスをするためなど忙しい。
 リュンヌは開いた口が塞がらず、サリエヌをまじまじと見たものだ。彼女は、リュンヌに突きつけた一言を気に入ったのか、数回頷いて機嫌よくワインを喉に流し込んだ。華奢な身体からは想像つかないほどの大食漢ぶりである。すでにワインのボトルを一本ひとりで空けている。リュンヌがまだ自分の鶏肉を半分以上も残しているというのにだ。
「なにぼーっとしているのよ。食べなさいってば」
 食事のマナーはすこぶる悪かった。肘はつくし、ナイフとフォークが食器の中で踊る。さすがに口の中に食べ物が入っている状態で口を開くことはなかったが、食べ物を飲み込んだ次の瞬間は、おしゃべりか次の食べ物を口の中に押し込むかのどちらかだ。ワインはまるで水のように胃の中に流し込まれていった。リュンヌは妊娠していることもあり、酒の類は禁止されていたが、それでも通常は食事とともに味わうものである。だがその「普通」の考えがつまらない子だとサリエヌに言わしめるのだろうか。
「びくびくしてもったいない」
 言われてリュンヌは、ナイフの動きが止まった。
「ほらそういうところよ。反論しないどころか、私が言ったことを真に受けて考えている」
 指の代わりにフォークを突きつけられたときは、さすがのリュンヌも苦笑いを浮かべるしかできなかった。侍女たちも、サリエヌの行儀の悪さになにも言わない。礼儀を尽くしてもてなしている。こうして見るとサリエヌの態度のほうが当然の振る舞いのように見えてしまうから不思議だ。
「サリエヌ、私に用があったのではないですか」
 構えず、むしろ親しみを込めて言った。礼儀作法にこだわる人間よりも、サリエヌはずっと好感が持てる。
 王妃の柔らかな声に、ぴたりと食器の音が止まった。
「面白いことをしましょう」
「面白いこと?」
 前振りもない突然の提案に、リュンヌは瞬きを繰り返した。
 顎に手をのせ、肘をついて上体をこちらに傾けてくるサリエヌは、さながらいたずらっ子のような意地の悪い笑みを浮かべて付け加えた。
「叶えてあげる、あんたの願いを。窮屈じゃないってこと教えてあげるわ」
 寝室で食事をするときには、サイドテーブルに蝋燭が置かれている。食事をする台より低い位置から明かりを提供するそれは、時に人の顔だけを闇の中から探し当て照らす。今まさに地獄から這い出た魔女のように、サリエヌの顔を妖艶に毒々しく、そして魅力あるものに見せかけていた。
 リュンヌはごくりと唾を飲み込む。その提案は危険なようでいて、ひどく甘美だ。己の中に押し込められた欲望が、首をもたげる。
「あんたが自由でいたいと思いさえすればいいの。だってあんたは、後宮では一番の権力者なのだから」
 その言葉は魔法だ。
 解き放たれ、巻きつき縛る。
「恋だって叶えてあげる。シュッダイナを心底愛しているわけではないでしょう?」
 縛めは強く、ほどくことができない。
 ソレイユとの薄れかけた記憶が、今ならはっきりと思い出すことができる。
「――なにが欲しいのですか」
 警戒をあらわにしたリュンヌの視線は、しかし共謀犯の冷徹な眼差しに変わっていた。侍女たちに気取られぬよう、すました表情で食事を平らげていく。もう味などしなかった。心の中ではすでに同意している。
「条件はただひとつ」
 心臓の音が激しくなる。リュンヌはナイフを握る手に力を込めた。
 さらにサリエヌは身体を寄せてささやく。
「シュッダイナに優しくすること」
 途端、派手な音を立ててフォークとナイフが白い食器に落ちた。
 サリエヌは薄ら笑いを浮かべている。
 侍女たちが慌てて駆けつけ、落ちた肉やこぼれたソースを拭う。
「できるかしら?」
 リュンヌはこのとき、自分が女だということを自覚した。
 できる、即答だ。愛してもいない男に対して、なにかの目的があれば演技だってこなしてみせる。
 こぼしたソースはもう床にはない。
 リュンヌは力強く頷いた。簡単だ、笑い出しそうになるぐらい簡単な条件だ。
 もう演技は充分に慣れていた。いまさら役のひとつ増えたところでなにが変わるというのだろう。
「なぜ」
「なぜって? それはとても愉快だから」
「愉快?」
「今のあなたにはわからないでしょうね」
 サリエヌは頬杖をついて、ため息を洩らした。その表情はどこか憂いを帯びている。喉の奥をわずかにひきつらせ、酒を煽り始めた。
 リュンヌは姿勢を正す。
「私のため? サリエヌのため?」
「もちろん、私のためだわ。あんたのためじゃない」
 グラスを乱暴に置き、きっぱりと言い放ったにもかかわらず、サリエヌは苦虫を噛み潰したように顔に深く皺を刻んだ。彼女の年齢が表れたようで、リュンヌは心底同情した。
「どのようなことでも、叶えてくれるの?」
「どんなことでも」
「あなたへの報酬は? 利益は?」
「質問ばかりね。言ったでしょう、愉快だから。お礼はいらない、シュッダイナに優しくしてあげて。で、なにが欲しいの」
 酔いがまわっているのか、サリエヌの口元はだらしなく開いている。肘をついて、グラスの中のワインを揺らしていた。
 リュンヌは息を吸い込み、目を閉じた。手に持ったフォークとナイフはさらの上に置かれている。こたえは決まっているのだ、欲しいものも。そしてなにより、自分は後宮での最高権力者なのだ。だれがその言葉に逆らえよう。

 

 あの時言葉にしたことを、自分は一生忘れないだろう。
 貪欲な女だと自覚したことも。
 故に今、シュッダイナの散歩の相手をする自分は心を偽りながら微笑むのだ。そう、願いを口にした瞬間から、リュンヌは偽りの世界に放り込まれた。サリエヌが望んだ世界へと。報酬をもらうより、さぞ愉快なことだろう。
「リュンヌ」
 花を取り上げられ、王が屈み込んで影を落とした。リュンヌは見上げてこたえる。すでに王の腕に抱きとめられていた。
 冷たい風がスカートの裾を持ち上げる。
 自ら王の腕に縋りつかない。けれども、王の腕は受け入れる。今はそれが限界。だが。
「思い出しておりました、サリエヌと夕食を共にしたときのことを」
「こんなときに他の人間のことを想うでない。側にいるのは、常にわしだ」
「ええ、存じていますよ」
 ですが――あの食べ方は男らしいですね。そう口を開く前に、王の口付けが落ちてきた。それはとても優しく愚かで、冷涼な朝の空気に冷えた身体にはとても暖かだった。
 

 

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