第二章 太陽 4 back next

 

 


 その菓子は甘く苦く、ひとつ口に入れれば甘美な夢が見られる。
 寝室の中央にある丸いテーブルに、王と王妃は向かい合って座った。彼等はじっと無言で、王は王妃を、王妃は握った両の拳を見つめていた。
 マリアは傷口の手当てもおろそかに、南国の乾燥した果物と赤い胡椒を入れたブレンドティーをリュンヌに、繊細で香り高いダージリンを王に差し出し退出した。王の憤怒は和らいだかに見え、リュンヌ自身が王妃としてマリアの退出を促したのだ。
「ふん。賢しいやつめ」
 鼻息荒く王は普段口にしない茶を飲み煽った。リュンヌはいつ王が怒鳴り散らすかわからない恐怖で言葉も出ない。余計な事は言わない、素直に頷いていればいいのだ。
 だが王は籠に盛られた焼き菓子をひとつつまみ上げ、目の高さまで持ち上げてしげしげと眺めた。口に放り込んでしばらく咀嚼していたが、やがてこれは誰に届けられたものであるか理解したようで、無言のうちにもうひとつをリュンヌの口に突き出した。
 リュンヌは反射的にそれを口に含む。バターの香りが口の中に広がり、生地は口の中ですぐにペースト状になるほど、しっとりとしていた。菓子のすべてに集中するかのように目を閉じて味わう。すると今までの緊張と不安がたちどころに崩れていってしまうようである。鼻から抜けるドライ苺の甘さと香りは、自然にリュンヌの口元をほころばせた。
「舶来品だそうだ」
 甘くはあるがしつこくはない。王はもうひとつ摘み上げて口に入れた。
「わざわざ……」
 太陽の名を持つ彼が、リュンヌのためにと持ってきた菓子は、意外にも王の機嫌を良くした。王は無骨な手で、もち手の小さなカップを持ち上げ口に運ぶ。
「お礼をしなくては」
 そっとリュンヌはささやいたつもりだった。だが王はひとつ大きな咳払いをして、リュンヌの方に身体をぐっと寄せた。
「気分はどうだ」
 王は身体全体から未だ酒の匂いが漂っていたが、今度は吐かなかった。眉はしかめたが。
 しばらく考え込み、リュンヌは数回腹をなでる。いとおしいという感情は、まだ沸きあがらなかった。なにかにつけ吐き気を催す自分の身体は、いったいどうなってしまったのだろう。いつまで続くのだろう。初めてのことだらけでリュンヌは不安に押しつぶされ泣き出してしまいそうだ。
「名前はもう決めているのだ、愛する娘よ」
 リュンヌははっとして顔を上げた。彼女の正面には熱烈に愛を捧げる男の姿がある。
――アリィ。
 初夜に他の女の名をささやく王の声を、ふと思い出す。
 王が愛を捧げる女はリュンヌ越しの誰かだ。
 リュンヌは視線を逸らした。腹を撫でていた手はカップに伸び、間を持たそうとする。
王はそれを阻み、己の手の中にリュンヌの手を包み込んだ。
 王は一体誰の手を握っているのだ。嫌悪にリュンヌは顔をしかめ、身体をよじった。だが許されなかった。腰を浮かせた王は、逃がすまいと力強い腕を背に回して抱き寄せてきた。
 ぶ厚い胸板に頭が沈みこむと、リュンヌは王に爪を立てた。 
「嫌うでない」
 命令ではなく、懇願であった。
 王の声はわずかに震えている。太い腕はリュンヌの頭をかき抱き、腰を強く引き寄せた。それでも足りぬとばかりに、王は王妃の肩に顔を埋める。
 この変わりようはどういうことだろう。先ほど怒りに煮えたぎった王はどこにもいない。
 リュンヌはきつく苦しい王の腕の中でもがいた。さながら酸素を求める魚のように。 
「わしにはもう、そなたしかおらぬ」
 枯れた声が次第に力を失う。
 王は涙さえ流さずに泣いているのだろうか。
「私は」
 強く抱きしめられれば抱きしめられるほど、リュンヌの心は氷のように冷たくかたくなっていった。ある一点のみがリュンヌの思考を満たす。
「あなたのアリィではないのです」
 王は顔を上げなかったが、わずかに身体をかたくする。
 どこまでいっても、リュンヌは従順な王妃にはなれなかった。
 彼女に降りかかった全ては、彼女自身のためのものではないから。
「愛している」
 明白な嘘に、リュンヌは薄く笑ったものだ。
 次第に目も虚ろになっていく。
――ああ、ソレイユ様。
 抱きしめられながら、思い描いたのは唯一ひとり。それがどういうことになるのかも、今はまだわからぬ。
 だが、
だがどう考えても思いやってみても、心を占める存在はシュッダイナではなかった。
寄せる口付けも、抱擁も求めているものとは何もかも違う。
そしてあるこたえにたどり着くと、知ってしまったのだ。
絶句して、今度はリュンヌが身体を振るわせた。あまりにもおぞましい思考に、再び吐き気がよみがえってくる。だがこれは懐妊したからではない。憎悪。
胸をまさぐられ、首筋に次々と落とされる接吻は時に荒々しく。
「いやっ」
 リュンヌは力を込めて初めて抵抗した。押した王の胸はたやすく離れる。
「リュンヌ様?」
 王妃の悲鳴にマリアが慌ててかけてきた。すぐさまマリアはリュンヌを抱きとめ、王を振り返る。
 向かい合った王の顔はわずかに歪んでいた。
「もう、おやめください。このようなお遊びは」
 身体が王から離れ、リュンヌははだけた胸元をかき寄せ、そろそろと後ずさりをする。
 マリアもリュンヌを庇うようにしてふたりの間に立ち、自分にかけていたショールをマリアの胸元を隠すようにかけてやった。
「遊び?」
 王はゆっくりと繰り返した。
 まるで子供のように、その声に邪気はない。本当に意味がわからないというように首を傾げるのだ。
「なぜこのように私を辱めるのです」
 上目遣いに王を見上げ、彼が一歩でも近付こうものなら、その倍の歩数を後ろに下がった。
「私はなんの身分もなにもない孤児でございます。それが何故王妃になれるでしょう。王のお戯れとしか考えられません。そして王は楽しんでいらっしゃる。なにもできない愚鈍な娘に、分不相応の荷を背負わせ潰れるのを笑って眺めていらっしゃる。あまつさえ――私を」
 詰まる声の出口を求めてリュンヌはあえいだ。
「それほど私は王の恋人に似ておいでですか。なぜ私なのです、私を后にするのなら、アリィを后にする方がずっとたやすいではございませぬか」
「リュンヌ様っ」
 咄嗟に上げたマリアの声には、王妃への非難が込められていた。
「マリア」
 リュンヌは信じられないと言った様子で目を見開いた。今まで無条件に味方であったマリアが自分を叱責する。その事実は、どんなむごい仕打ちよりもリュンヌを打ち据えた。
「マリア……」
 力なくその場にリュンヌは膝をつく。マリアが慌てて助け起こそうとしたが、リュンヌは振り払った。もうやめよう、止めるのだこれ以上は。籠の鳥は美しく鳴かなければたちまち価値はなくなってしまうのだから。だがはじめから籠の鳥ではなかったとしたら。
 リュンヌは四つんばいになって身体を丸めた。嗚咽は堪えきれない。
 王は泣き崩れるリュンヌの前で仁王立ちであった。かたく握られた両の拳は、しかしどこにもぶつけられず。王は膝を折ることを知らなかった。たったそれさえできていれば、か細くひ弱なリュンヌを抱きしめることができるであろうに。
 そしてリュンヌは声を殺した。代わりに唇を噛み締める。
「身分があろうと、立派な体躯があろうと、手に入れられぬのだ。リュンヌよ、だがわしはお前に全てを与えたつもりだ。何故辱められたと感じよう」
 王は靴音高くリュンヌに近付いて見下ろす。目に映ったのはまさしくこどもであった。しかしながら王はこどもを抱き起こし軽々と持ち上げた。
「陛下」
 不安の声音を隠せないマリアを尻目に、王は抱えたリュンヌを寝台に運んで寝かせる。
 リュンヌはなじみのある柔らかさに包まれると、うつ伏せになりシーツをつよく掴んだ。彼女は言いようのない悲しみで満たされていながら、脳裏にソレイユの顔を幾度となく浮かばせる。好きな男に想いを告げることも寄せることもできないなど、だれが教えたか。それを率直に口に出せるほど勇気は欠片もないが故に、リュンヌは自らの生い立ちを理由に泣き縋るしか思いつかなかったのだ。愛せない、愛されもしない、そんな存在などどれほどの価値があろう。
 マリアもものを言わない。見捨てられたか。
「うっ」
 背中を丸め、さらに顔を枕に埋めた。するとぶ厚くかたい重しがのしかかってくる。
 王は証明しようとしている。
 だがリュンヌは奪われると感じた。
 ソレイユに対する想いを。
「リュンヌよ」
 王のしゃがれた声が耳元でささやく。太く浅黒い手は、ゆっくりとしかし確実にリュンヌの身体に触れてきた。だがもう一方は。
「っ」
 王の腕を目で追うと、ひきつった悲鳴が喉を震わせる。すらりと抜かれた長刀は、まっすぐに――自分に向けられている。
「わしにはもうそなたしかおらぬ。わしを拒むのであれば、そなたの首をかき切りわしも自害するぞ」
 マリアは目をそむけている。
「いやっ」
「わしはそなたを愛しておる。それ以外、何が必要だというのだ」
 それはマリアがリュンヌに諭した言葉でもあった。
 リュンヌは目を見開き、喘ぎ、もがいた。
 王はさながら獅子のように食らいついた。衣服を剥ぎ取り、甘噛みを繰り返す。征服者として、支配者として彼は存在していた。哀れな子羊はその下でうずくまり、食われ食い尽くされる。
 それは一方的な陵辱であった。初夜のなにも知らなかったときよりも、深く心臓に杭が打ち込まれる。――なんたるかを知ってしまったが故に。
 声を殺して心も殺さなければならないのか。
 だが獅子は容赦なくのしかかる。やがて獲物は息絶えようとしていた。その寸前、現れた幻に手を伸ばし掴み損ねる。ソレイユの幻は掴むどころか、背を向けた。
 これが現実なのだ。
 リュンヌはこのとき心底悔いた。
 結婚というものの何たるかを知ってしまったがために。


 

 

 

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