第二章 太陽 3 back next

 

 


「踊りませんか」
 ソレイユの艶めいた声に、リュンヌは心臓が跳ね上がった。しかし彼が差し出した手は、他の女性に向かっている。仮面もつけず、素顔をさらした婦人は、ゆったりとお辞儀をしてその申し出を受けた。
 リュンヌはふたりが優雅にステップを踏む姿を、ぼんやりと眺めているしかなかった。
 祝賀会では各国からの賓客を最小限に留め、ほとんどが身内というパーティだった。
 身重の王妃を気遣い、彼女の席は王の隣でそれ以外はなかった。王は酒を浴びるように飲み、リュンヌの肩を抱き寄せ豪快に笑う。
 王妃の懐妊祝いなど名目としか思えなかった。玉座に跪く貴族たちは、いかにもわかりやすい世辞をふんだんに振りまいて去っていく。差し出された贈り物の数々は、結局王の地位を確かめるものでしかない。リュンヌには首飾りも指輪も、無意味だった。
「陛下、退出してもよろしいでしょうか」
 あまりにもの臭気にリュンヌはふらふらと立ち上がった。礼儀などこの際関係ない。一刻も早くこの酒と香水にまみれた部屋から出て行かなければ。あいにく侍女のマリアは玉座まで足を運ぶことを許されていない。リュンヌはハンカチで口元を覆い、王の返事を聞かずに駆け出した。
「がっははっ。もちろん、赤子は男じゃ。男以外に生まれるわけがないっ」
 背後で王の高らかな宣言が響いていた。
 リュンヌはその意味を確かめる余裕などない。控えていたマリアに抱きとめられると、すぐさま空っぽの胃から搾り出すように、嘔吐したのだ。
 
 抱きかかえられるように寝室まで戻ると、すぐさま侍女たちが駆け寄り衣裳を脱がせにかかった。それは素早く丁寧で、リュンヌは一瞬たりとも不快な思いをすることはなかった。
 手を洗い、口をゆすぐ。人肌より少し温かい湯に濡らした布で、身体全体を清められ、危うく香水をかけられそうになるのを乱暴に振り払う。寝巻きに着替えさせられ、寝台に横になるとようやく安堵のため息が洩れた。
 遠く離れているというのに、パーティ会場からは管楽器や太鼓の音が聞こえ、酔っ払いの調子外れな歌声が聞こえてきた。耳を塞ぐ。
 若い侍女たちはリュンヌの今にも泣き出しそうな表情に慌てて右往左往していたが、マリアや年かさな侍女によって役割を与えられ去っていく。
 枕の横に小さな桶を沿えてられる。すぐさまリュンヌは胃がひっくりかえるのではないかという苦痛の中、黄色くぬめった液体を吐き出した。涙も落ちていった。
 背中に温かさを感じた。マリアがずっとさすってくれているのだ。そのことで嘔吐感はあるものの、心理的にだいぶ落ち着くことができた。
 ようやく吐き気がおさまると、倒れこむようにして寝台に身体を横たえる。シーツを強く握り、嗚咽が込み上げそうになるのを唇を噛み締めることで我慢した。今度は別の苦しみがリュンヌを襲っていたのだ。
 脳裏に浮かぶのは、青地に金の縫い取りをしたジャケットを嫌味なく着こなすソレイユの姿である。彼は驚くほど低く妖艶な声で誘い、薄く笑う。まるで夜の君。
 リュンヌは我知らずソレイユの姿ばかりを目で追いかけていた。幸い酒に酔った王に咎められることはなかった。会場の誰も王妃の熱っぽい視線の先など気になどしなかっただろう。大事なのは王にへつらうことであり、まだ生まれてさえもいない子供についてではないのだから。
 口の動きだけで、まるで耳元でささやかれたようにソレイユの声を再現することができる。踊っていただけませんか、その一言をなぜ自分に向けてはくれなかったのだろう。彼はちらりとリュンヌを見ただけで、すぐさま目の前の女性に笑いかけた。
 思い返すだけで心臓の鼓動が速くなる。一体どういうわけなのだ。
「リュンヌっ」
 しかし思考は乱暴などなり声に消し去られる。
 反射的にリュンヌは上体を起こした。
 後宮の寝室に断りなく入ってくることができる男は、シュッダイナ王だけである。王は荒々しい靴音を響かせ、侍女たちの抗議を無視してふんぞり返りながらやってきた。彼は鼻息荒く、顔も紅潮していて吐く息からは酒の匂いがする。着衣はやや乱れてはいたが、そこから覗く浅黒い肌と、隆起した筋肉は猛々しい雄を想像させ、リュンヌをことさら怯えさせた。
 王妃はシーツをかき抱き、上目遣いで王を探す。
 王が目の前に現れたかと思うと、つよくリュンヌの細い手首をにぎり、顔を近づけてきた。生臭い息がリュンヌの顔にかかり、再び強い嘔吐感が襲ってくる。マリアが桶を素早くふたりの間に差し込み、堪えきれずにリュンヌは早々に戻した。
「何故、わしの側におらぬっ」
 ぎょろりと動く大きな目が、震えるリュンヌをとらえる。王は掴んだリュンヌの手をますます力を込めて握り、彼女の身体を前後に揺すった。
「陛下っ」
 みるに見かねてマリアが割って入ろうとするが、すんでのところで王の平手が舞った。
 マリアは衝撃で床に叩きつけられた。
「リュンヌ様は不調なのです。なにとぞお許しをっ」
 けれどマリアもすぐさま起き上がり、王の腕にしがみついた。
「無礼だぞ」
 低い声で王が威嚇する。しかしマリアは歯を食いしばって耐えた。
「私は、リュンヌ様の侍女でございます。リュンヌ様をお慕いし、お守りするのが私たちのお役目です。たとえ王といえども、リュンヌ様を傷つけることはさせません」
「その振る舞い、死で償うか」
「覚悟の上でございます」
「よし」
 祝賀会では腰に剣を帯びてはいなかったはずだ。だが王は抜刀し、剣先を跪くマリアの首筋に当てたのだ。この剣は礼儀を欠いたリュンヌに向けるつもりだったのか。鈍くひかる鋼が、挑むように王を見上げるマリアの姿を映している。
「リュンヌ様をお守りするということは、その内に宿ったお子様のお命をお守りすることでございます。後悔はございません」
「マリア」
 リュンヌは小さな悲鳴を上げる。身体は強張って寝台から一歩も動くことができない。王妃はただただ怯えるしかできなかった。
「リュンヌ様を労わり慈しみください。身重の身体というのは、存外に不自由なものでございます」
 跪き、しかし頭を下げないマリアには王ではなくリュンヌの臣下であるという確固たる意志が存在している。今、王はリュンヌの味方ではない。すなわちマリアは身を呈して王妃を守らなければならないのである。
 王の剣先は揺らぎなくマリアの目の下に固定された。ぷつりと音がした。マリアの左頬には、一筋の鮮やかなざくろ色が浮き上がる。途端リュンヌは弾かれたように起き上がり、マリアの前に飛び出した。
「おやめください」
 王は首をめぐらし、ゆっくりとリュンヌを見た。切っ先は未だマリアの頬にある。
 リュンヌは王と視線を合わせたとき、ぞくりと背筋が粟立つのを感じた。まるで二頭の獲物を捕らえたとき、一方に牙をたて一方に脅しをかけるような目である。だがそれも一瞬のこと。王は眉根に皺を寄せ、歯をきしませた。
「お前はなにもわかっておらぬ」
「無礼を働いたのはそもそも私のはず。マリアは職務をまっとうしているだけに過ぎません。罰なら私にこそ」
 とはいうものの、剣先を向けられればその虚勢はいとももたやすく崩れ去るだろう。 
「違う」
 再び王は歯軋りをした。剣はわずかながら震えが生じている。
 リュンヌは剣先と王を交互に見たその時である。
「失礼致します」
 尖った空気を割くようにして、幼い声音の侍女が両手に銀の盆を持ち寝室に入ってきた。彼女は王に跪く王妃と侍女頭に驚きを隠せない様子で、一瞬立ち止まった。
「なんだ」
 こたえたのは王。
「あの、ソレイユ様より菓子を頂戴いたしまして」
 その名を聞いた途端、リュンヌはこの状況を忘れてかっと頬が熱くなった。
「入れ」
 王はぞんざいに言い放ち、ようやく剣を鞘に収めた。

 

 

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