第一章 染まっていく者 4 back next


 白い花が楚々として窓際に飾られている。だが目を向ける者はいない。
 リュンヌが決意をしてより、後宮は一気に慌しくなっていた。侍女の数は普段の生活を補助するだけでも十人を下らないようになり、またそれぞれが細かく仕事を区分されていた。
 漠然と大変だとは理解していたリュンヌだったが、肌着一枚を着るのでさえ作法があるということにめまいがした。
「煩わしいわね」
 リュンヌが苦笑交じりに呟く。
「しかたありません。これも作法ですから」
 直接返答をしてくれるのも、侍女頭のマリアだけである。その他の侍女は、さながら貝のように口をつぐみ、もくもくと手を動かしている。
 ひとりの侍女が跪いて姿見を支えると、リュンヌが前に立ち、着衣の乱れや姿勢を細かく確認される。その行為も作法のひとつに入るのだ。
 一息つける時間はそう多くはなく、抱いていたイメージとは程遠い息苦しさである。
 リュンヌはそれでも王妃としての一切を学ぼうとしていた。その姿勢は伝わったのか、侍女たちは徐々に王妃と視線を合わせるようになった。無言ではあるが、侍女たちの表情も柔らかくなり、微笑みを交し合うことも出てきた。
「リュンヌ」
 午後の衣裳に着替え終り、侍女たちもマリアを残して退室したところだった。頃合を見計らったように声がかかる。低く太いその声は、容易に国王シュッダイナだと知れた。
 マリアは一礼して、隣の部屋に去っていった。
 長椅子に腰かけていたリュンヌは、王の姿を認めるとゆっくりと立ち上がってスカートの裾を少し持ちあげた。
「ほう」
 ぎこちなさはあったものの、作法通りの態度に王は目を細めた。
「しばらく会わない間に」
 王は何度もあごひげを撫でながらリュンヌと並んだ。
リュンヌは気後れすることなく凛と起立することができた。
 背後から並ぶふたりを見れば仲むつまじく、歳の離れた夫婦だとは思わない。
「明日はあの仕立て屋が来るのです。好きに使ってよいでしょう?」
「リュンヌ、わしは」
 王は嘆息し、リュンヌの前に立った。彼は王妃の肩に手を置き、視線を合わせる。なんとも言いがたい涼やかなリュンヌの視線に、王は唇を引き結んだ。
「あの花はなんという」
 突如王はリュンヌから目を逸らし、目に留まった花を指差した。花瓶は細い筒型のガラス製で、光を受けてまるでダイヤのようにきらきらと輝いている。活けた花は一種しかなく、それも小花である。
 リュンヌは王の視線を辿った。誰が置いたのであろう、彼女は初めてその存在を知った。
 返答が見つからない。初めて見る花だ。
 リュンヌの困惑に、王は再びため息を落とした。
「明日は狩りに出かける。しばらく戻ることはない故、楽にしておるがよい」
「あの」
「なんだ」
「私、なにかいけないことでも?」
「リュンヌ」
 陽に焼けた王の肌は、若々しく艶めいている。リュンヌは思わず、筋肉の隆起した腕に触れてみたい衝動に駆られた。
――触れてもよいのだろうか。
 ためらいがちにリュンヌは手を伸ばした。途中くじけそうになった手を、王がすかさず掴んでくる。
 王はリュンヌのか細い手を自分の頬に擦り付けた。
「おお、愛しい娘」
 彼の低く優しげな声音に、リュンヌはびくりと肩を震わせた。そこに嫌悪は不思議とない。
「わしが帰ってくるまでにあの花の名を教えておくれ」
「え」
「頼んだぞ」
 王はリュンヌの手の甲にキスをした。意外にも柔らかいひげが甲をくすぐった。
 その時、不意にリュンヌは身体がふらついた。反射的に王の手を掴み、縋りつく。王は体勢の崩れたリュンヌを素早く抱きとめた。
「リュンヌ」
 数々の難事を解決してきた王も、さすがに妻の体調不良には戸惑った。抱きとめたものの、それからどうしてよいかわからず恥かしげもなく侍女に助けを請うた。
 めまいを感じて足元を崩したリュンヌは、泣き出しそうなほど頼りない声でわめき散らしている王を見上げていた。そして奥の部屋から複数の慌しい靴音が聞こえると、普段ならなんともない音なのだが、今日に限っては非常に耳障りでありぎゅっと目を閉じて堪えなければならなかった。
 侍女頭のマリアを先頭に、ぞろぞろと侍女が寝室に入ってくる。彼女達は身体を拭く布や着替えを持っており、あらかじめこちらの様子を伺っていたものと見られた。
 王はマリアの指導の下、リュンヌを横抱きにしてゆっくりと寝台に横たえた。
 マリアは王の退室を求めたが、王はなにかを言われたことすら気がつかない様子だった。仕方なく彼女は作法など一切を無視して王妃の衣裳を脱がせ、横向きにして身体を丸めさせた。
「リュンヌ様、どうなされましたか」
 床に膝をつき、労しげに覗いてくるマリアの姿を見て、ようやくリュンヌは落ち着いた息を吐き出した。
 家臣たちに気安く触れてはならない、そう教えられてはいたが、リュンヌにとってマリアはさながら母のような存在であった。無意識のうちに彼女の手を握ったとして、だれが咎めようか。
「大丈夫」
「顔が真っ青ですよ」
「……」
「いったいどうしたというのじゃ。毒か?」
「いいえ、これは」
 毒ならばふらつきだけでは納まらないだろう。だが医者ではない者の所見など動揺した王に通じるだろうか。
 そこへややゆっくりとした足取りで寝室に入ってきた者がいた。靴音が響きにくい布靴を履いた小さな老婆である。
 老婆はリュンヌの寝台の周りに集まった人垣を押し割るようにして前へ進み出た。
「おお、そなたか。どうじゃ、リュンヌの様子は、どうなんじゃ」
 老婆はまくし立てる王をちらりと見上げ、ふんと鼻を鳴らした。
「落ち着かれよ。さて」
 老婆の存在に気がついたマリアが立ち上がって場所を空けた。彼女はリュンヌの息遣い、顔色を見てこう言った。
「王妃様、いかがですかな」
 一同が固唾を呑んでリュンヌの回答を待っていた。
――今にも死にそうな王妃などいらないのかしら。
 心配されるということをあまり経験したことのないリュンヌは、老婆のしゃがれた声が罪の宣告かのように聞こえた。
 リュンヌがこたえないでいると、老婆は断りもなくリュンヌの手首を掴み、指二本をリュンヌの青白い血管が浮き出た場所に当てた。
 しばらくそうして脈数を測り、次に簡単な問診をした。
「それで王妃様、月のものは先月いつ始まったかね」
「え」
 リュンヌは驚きで顔が真っ赤になった。口ごもっていると、代わりにマリアが老婆にそっと耳打ちをする。老婆は心得た様子で頷いた。
「王様、おそらく王妃様は身ごもっていらっしゃる」
「なんとっ」
「数えて二ヶ月というところかの……。今一番、安静にせねばなりませぬ。心労ももってのほかじゃ」
「誠かっ」
「まあ」
 王に続いてマリアも喜びに顔がぱっと輝いた。他の侍女たちも喜色だっていた。しかしリュンヌはというと、老婆の問診に対してのマリアの回答に、なぜそれほどまで喜びがあるのか皆目見当がつかなかった。良い結果なのか、悪い結果なのか頭の中で考えれば考えるほど天井がぐるぐると回っているように見える、またはその感覚があった。そうするうちに込み上げるものがあり、咄嗟に口を押さえる。酸っぱくえぐみのある液体が舌までのぼってきた。すると周囲の人間達は、王妃がうめいているにもかかわらず一斉に満面の笑みを浮かべたのだ。
 吐き気は連続して襲ってきた。
 喉の奥が苦く涙が溢れ出してくる。背中をさするマリアでさえ、笑みを浮かべていた。
「早くおけを」
 そう厳しく怒鳴ったのは、老婆だった。やっと事態を把握した侍女たちが隣の部屋に駆け込む。
 リュンヌはもう、マリアの手を握ってはいなかった。その代わりシーツを強く握り締めて老婆を仰ぎ見る。
「おめでとうございます」
 マリアが吐しゃ物を掃除しながら優しく言った。リュンヌは首を傾げる。
「おなかに王の赤ちゃんがいるのですよ」
「っ」
 リュンヌは目を見開いた。頭の思考が一気に停止する。
「ご懐妊おめでとうございます」
 続いて老婆や侍女たちが次々にお祝いの言葉を並べた。
「ごかいにん、あかちゃん……」
 それでも口を動かせば、まるでオウムように抑揚なく教えられた言葉が出てくる。
「祝いじゃ、祝い。支度をせいっ、明日の狩りは中止じゃ」
 王が高らかに笑う。そこでリュンヌはようやく自分の身に起きたことを悟ったのだ。
 そしてそれは一日のうちに城内に広まった。

 

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