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香の匂いが立ち込める寝室には壁がなく、豪奢な彫刻が施された四本の柱があるのみである。靴音は響かない。響いたところで、聞いているのはおそらく王と王妃、そして必要な音以外収拾しない耳を持った侍女たちだけだ。侍女たちはまるで蝋人形のように立ち尽くし、口をつぐんで虚ろな目をしている。王たちが行う一切を見届ける以外、今彼女達にできることはなにもないのだ。
ことりとグラスが音を立てサイドテーブルに置かれると、いよいよだとリュンヌは身を強張らせた。ゆっくりと王の巨体が近付いてくる。
祝言を挙げたばかりの夫の頬は緩み、しかし一言も発することはなかった。
リュンヌが想像していたより、痩せた王だった。乾燥して灰に近いと思われた肌は、艶がありほんのり赤みを帯びている。皺は目もと口もと額と、深くはあるが多くはない。六十近くではあるが、姿勢はよく、若者と決して引けを取らない筋肉がつき、均整がとれていた。王は狩りを好むという。身体だけを見れば、あの太くたくましい腕で弓を引く姿がたやすく浮かんだ。
対してリュンヌはというと、やせっぽっちの貧相な身体を持つ少女である。白に近い銀の髪は、最近では艶を取り戻していたが、以前までは栄養不足でぱさついていた。小さな顔に不釣合いな大きな目はよく動く。しかしこけた頬が哀愁を誘い、陶器のように白い肌がさらに拍車をかける。手足は細く骨格がよくわかるほどで、少しでも力を込めて掴めばたちまち折れてしまうのではと懸念してしまうほど。
美しいという形容からは、かけ離れた容姿なのだ。にもかかわらず、王はなにを血迷ったかその少女を后にした。
リュンヌの視線に気付いたのだろう、王は薄く笑って天蓋付のベッドの端に並んで腰かけた。軽く手をとり、甲に口付ける王の様は、さしずめ姫に跪く騎士のようである。
「あの」
戸惑いを覚えたのは確かだ。
口に出すべきことではない。睦言さえささやけばいいのだ、リュンヌの覚悟はしかし早くも崩れていた。
「どうして私なの」
挑発的とも取れる物言いだった。
たった十四の齢を考えれば、礼儀や作法など好奇心の前では脆くも崩れ去るものかもしれない。王の前では疑問すら抱いてはいけないのだ。
少女にはおそれがなかった。もともと城内の人間ではない。王の気性は、大人というフィルターを通して伝わってくる。至極不明瞭に。
「私はあなたを知らないわ」
王の顔がわずかに歪んだ。
「娘よ」
彼の手は存外に温かかった。
その骨ばった手は、リュンヌの頬を優しく撫でる。
王は身を乗り出し、息がかかるほどに近付いた。
「その手は血で汚れている、だから触らないで」
婚儀の前に側近をひとり、首を刎ねたという。事実だけが伝わり、理由は憶測するしかない。だが王はこれまでに幾人もの配下に手を下している。獅子王、城下の人間は王をそう呼ぶ。身を隠しておとなしくしていなければ食われるぞ。そんな意味合いだった。
「私が綺麗過ぎて口も利けないの? それとも外見とは裏腹な性格だったからかしら。女は宝石よ。磨かなければくすんでしまうわ」
どうせ抵抗しても意味がないもの、ならば自分が嫌な思いをする分以上は、相手にも返してやりたい。
「宝石という意味がわかっているのか」
王はにやりとして、酒くさい息をリュンヌに吐きかけた。
「ええ、存じていますわ。男に献上するもの、もしくは身を飾るものでしょう」
王は目を細めたに過ぎない。唐突に彼はリュンヌの両の手首を掴んで持ち上げた。次にむさぼるようにリュンヌの小さな口に己の口を重ね合わせる。
「抵抗してもよいのだぞ」
「……なぜ私なの」
身分もなにもないのだ。リュンヌには一切、後ろ盾がない。故に、心配するのは己の命以外なにもなかった。
育ててくれた協会の修道士たちは、彼女を大量の金貨と引き換えにした。あのようなところ、二度と戻るものか。けれども、后という役柄は自分には荷が重過ぎる。
「それとも」
これは最初から王の遊戯だろうか。その方が納得できる。なにしろ、王は過去三十四人もの女を后に迎え、すべて国に返している。今回は趣向を変えた遊びなのだ。
「それとも?」
王はリュンヌの首筋に顔を埋め、続きを促した。けれどリュンヌは頭の中だけで思案し、その後一切の言葉を飲み込んだ。
だれかが己の身体に入ってくる。
引き裂かれるように鋭利で、握りつぶされるように鈍く苦しい。
知らずリュンヌの頬は濡れていた。声を出すまいと必死で歯を食いしばる。
これは儀式なのだ。
洩れる嗚咽のみが、少女の心情を吐露していた。
触らないで、近寄らないで。王妃になりたいわけじゃない、贅沢な暮らしも、金貨も銀貨も欲しくない。ただ……幸せを。
人として、女としての幸せを。ささやかでもいいから感じたかった。
――だのに。
現実が容赦なく襲いかかる。
「アリィ」
リュンヌをかき抱き身体を震わせる王は、こともあろうに他の女の名をささやいたのだ。いとしく、甘く、そして優しく。

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