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崩れかけた名も無き館がある。 今から約百五十年前に滅んだ、ドグマニード王家の数少ない遺産である。
セロール街の南に位置し、標高二千メートル級の急峻な山の中腹にそれは建っていた。 本城から馬車で半日ほどかかる距離を、かつて六十歳にもなる城主は愛しい女のために通い続けた。
女の名は、リュンヌ。
白い月と謳われるほどの美少女で、彼女のせいで国庫が傾いたと伝えられている。
彼女はわずか十四歳でシュッダイナ・ピエル・ドゥ・ドグマニードに第三十五番目の妻として迎えられ、唯一子を成した女性である。
シュッダイナ・ピエル・ドゥ・ドグマニード王は、その攻撃的な性格から獅子王とも呼ばれていた。彼とリュンヌの間には男女二人の子がいたが、娘のヴィヴィアンヌを女王に即位させている。男児を王に据える慣例からすると、特異なことだった。娘が即位して一年後、ドグマニード王家は滅ぶ。女王、わずか十五の齢だったという。

ドグマニード王家について記憶していることはそれぐらいである。 ヴァイスは口笛を鳴らし、手に乗せられたぶ厚い日記帳を見つめた。埃はさほどついてはいないが、表紙はくすんで日焼けをしている。ぱらぱらとめくると、最後の方は空白が目立つ。
「たいして価値のあるもんじゃねーと思うが?」
それを寄こした白髪の老人に向かって片目を瞑ってみせる。老人は杖をつきながらも、姿勢はしゃんとしていた。老人の名は知らない。ただ、好きなように呼べと言われただけだ。故にヴァイスはその老人をあんたと言う。親子以上に歳の離れた相手だろうが、そこに意味はないと、ヴァイスは常々考えている。
太陽がずいぶんと高く昇っていた。窓を開け放って空気の通り道を作れば、爽やかな風が流れ込んできた。ともすれば遠くの方で鳥の鳴き声が聞こえる。森の中にまぎれるようにして建つ小屋は、まるで隠れ家のような簡素な内装だった。
昨夜、倒れるようにしてここに転がり込んだ。手に入れた金品を換金しようと隣町を目指している途中である。なぜか気分が変わっていつもと違うルートを選択し、不慣れなためか道に迷ってしまった。
朝食と共に用意されていたのは固いパンと塩スープ、それから老人の不機嫌そうな顔だった。ヴァイスは無言でそれらを受け取り、すべてを平らげると老人はドグマニード王家について知っているかと聞いてきた。
なんと唐突な質問なのだろうか。ヴァイスの心理を瞬時に読み取った老人は、無言でぶ厚い本を突き出した。そして手に持っていた首飾りを肩の高さまで持ち上げる。ヴァイスは舌打ちをした。首飾りはもともとヴァイスの懐に忍ばせていたのだ。いくら熟睡していたからといって、簡単に落ちるような場所に隠していたわけではない。
なんのことはない、老人も自分と同じなのだ。ただ少し対象にする相手が違うだけ。そう思うと、ヴァイスは本をめくりながら老人の意図するものを考える。どうやら本は日記のようだ。この日記と首飾りを交換しようというのだろうか。
ヴァイスは内心の苛立ちを抑えながら、あくまであっけらかんとした態度で日記の値打ちを問うたのだ。
「それはこれとて同じじゃろう」
老人は杖の持っていない方の手を掲げた。擦れる金属音が老人の手のひらで鳴った。親指ほどの大きさもある赤の石に、くすんだ銀のチェーンが申し訳なさそうについているネックレスである。その大雑把なカッティングは、窓から差し込む弱い光では石を輝かせることができなかった。否、もともとその石は人工的に染められたフェイクである。素人が見ても、価値のない屑物だと判断できるのだが、チェーンは違っていた。濃厚で下品な赤がフェイクだと主張しすぎて気付かないが、石の台座の裏にある精巧な紋様はかつて滅んだドグマニード王家のものである。
「そうでもないさ。石を外して別の石をはめればいい。多少は見られるだろうよ。できれば本物がいい」
本物、というところを軽く笑い飛ばしてヴァイスは言った。
「ここにはない」
老人はさほど気にせず、むしろ失笑すらした。
「ここにはない、ではどこにあるか知っているんだな。教えろよ」
「女王の墓に眠っとるよ。今は発掘されて城の奥深くに展示されておる。もちろん、台座は鍍金じゃが」
「へぇ」
ヴァイスは目を細めた。埃っぽい壁に背をわずかに預け、腕を組む。顎を引いて探るように老人を見上げた。
「で、あんたが親切に台座を交換するのか」
老人は喉の奥で短く笑った。ヴァイスに背を向け、出窓に近付き遠くを見遣る。次いで大きく息を吐き出した。
「そんなことはせん。もともとそういうもので受け継がれてきたのだからな」「なかなか詳しいな。王家の血筋の者か?」
「我ら一族男児は、生まれながらに盲目じゃ。我らとはいっても、わしは養子で関係はないが……。入っといで」
老人が顎をしゃくって奥の部屋に向かって言った。呼ばれて出てきたのは、ヴァイスの腰ほどの男の子だった。歳は十歳前後、さらさらと流れる髪は顔を隠すように覆いかぶさり顔に影を落として陰気な雰囲気を漂わせている。衣類も王家の血筋と言うには似つかわしくなく、麻布のチュニックとズボン姿であった。そのチュニックの丈も男の子にとっては長すぎた。おずおずと老人の前にぴったりとくっつく様子は、捨てられた犬を連想させる。「ソール。この首飾りの正当な持ち主じゃ」
老人はソールと呼んだ男の子の頭を数回撫でた。
「そうかい。だが首飾りの礼がこれじゃあな。こういうのは学者に譲ってやってくれ、俺が欲しいのは現金だ。ないなら首飾りは返してもらうぜ」
「お前には用のないものだ」
「この坊ちゃんにもな。過去の栄光にすがり付いてなんになる。王家は滅んでいるんだ」
「物の価値は人それぞれ。値がついたものに、真の価値が伝わろうか。これはお前が持っていたところで、屑同然なのだよ」
「じゃあ、この日記は俺が持っていることで価値があるのかよ」
たかだか王妃の日記。石が偽物であることを差し引いても、対価がこれではあんまりである。 老人はうつむいて黙り込んだ。ソールは老人の足を両手でしっかりと抱きしめている。子供の怯えた視線に、ヴァイスは小さく息を吐き出した。
それほど怒ることの内容でもない、そう思いなおした。どちらも金に引き換えることができたとしてもほんの少しにしかならない。自分を飢えから救ってくれたのだと思えば、首飾りを差し出しても足らないのではないか。
「ところで、ひとつ願いがあるのじゃが」
「なんだ」
ヴァイスは素っ気無くこたえ、まっすぐ老人を見た。
「その本を読んでもらいたいのだ」
「ん?」
その奇妙な願いにヴァイスは目を細めた。
「昔の文字ゆえ、どうにも読めん。お前さんは、そういうのが得意じゃろう?」
ヴァイスは口角をわずかに上げ苦笑した。
「たしかに」
あらゆる場所に眠っている金品を探し当てるには、それを記した文字を読まなくてはならない。おかげでヴァイスは各国の文字を読み書き、解釈する能力がある。たとえ金品につながらなくても、かつての治世をさぐるための、そのような需要は時々あるものだ。
だが老人が本の内容を知ろうとすれば、少なからず料金が発生する。
「見たところ日記のようだが……。この中にお宝の隠し場所でも書いてあるのか」
「愚問じゃ。書いてあったところで、お前さんも知ることとなるだろうよ」
「そりゃそうだ。だが隠語や暗号なら話は別だ」
老人はヴァイスを睨みつける。
「目的はわしが知っているドグマニード王家と、その日記の中に書いてあるドグマニード王家を擦り合わせて聞かせたいのだ」
そう言って先ほどから静観しているソールの肩を抱き寄せる。ヴァイスは盲目の少年を見た。
「ぼうやにか?」
「正確には、一族に降りかかった呪いに。王妃リュンヌの第二子・ソレイユは、姉である女王ヴィヴィアンヌに目を切られて重症を負った。この呪いはな、幸薄く母を求めて死んでいった王子の呪いなのだ。そしてそれは、王子の母が書き残したもの。
業なのだよ、この一族の。母を求めてやまぬ王子の魂は、未だ受け継がれておる」
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素材提供:Heaven's Garden様
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